世界のカルチャーを学ぶために語学を身につけたい
前回の投稿も、たくさんの方に読んでいただきました。コメントを書いてくださったり、いいねやスキを押してくださり、いつもありがとうございます。noteでは、普段、僕自身が考えていることをお店のスタッフに語りかけるつもりで書いております。
前回書いた、旅をする目的のひとつに「語学を学ぶため」ということ挙げておりました。今回は、そのことについて詳しく書いてみたいと思います。
言葉は、コミュニケーションのツール
僕は、イタリア語と英語を話せますが、話せると言ってもほんの少し。料理を作ることが仕事の料理人にとって十分な程度で、語学を学んでいるとはいえ、決してバイリンガルというわけではありません。日本語ですらしっかり話したり読んだりできないのに、他国語を学ぶことに時間を費やして、中途半端なことをしているなぁ、と自分自身では思っています。
むしろ、日本語をしっかり学んで、文学作品を残す作家さんや、人の考えを理解して言葉にするライターさんの方が、語学という意味では長けているのではないでしょうか。
イタリア語は、修業したイタリアで、英語は、大学留学で学び、それ以降も旅をするごとに勉強をしています。それは、完璧に語学を身につけたいというよりも、その国のカルチャーを学ぶためのツールとして学んでいるという方が、正しいかもしれません。
というのも、海外の厨房には、さまざまな国の人が働いていて、彼・彼女たち(僕も含め)は、母国語ではない言葉でコミュニケーションをとっています。そんな環境では、イタリア語や英語を完璧に使えるうことよりも、むしろお互いのコミュニケーションだったり、いっしょに働くために壁を取り払うために使うことの方が重要だと思うからです。
ですので、完璧さよりも、どうしたら相手ことや、その背景にあるカルチャーを理解し、それを尊重しながら楽しく仕事ができるか。そのために使える語学力があればいいという気持ちでいます。
語学を学び各国のカルチャーを理解したい
僕が語学を学ぶうえで意識しているのが、たとえば、マネージャークラスの人物が、僕たち厨房スタッフに対する言葉と、お客様に使う言葉をどう使い分けているかというような、シチュエーションや話す相手による言葉の選択です。
これを注意深く見ていくことは、たとえば階級社会の実態であったり、またはベンチャー企業のように新しいフラットな社会の姿を実際に感じとることができると思うからです。
「文は人なり:The style is the man」という言葉があります。
18世紀フランスの博物学者ビュフォン氏が残したもので、文章は筆者の思想や人柄があらわれているので、それを見れば筆者の人となりが判断できる、ということを意味しています。
使う言葉も同じだと思っていて、イタリア語やフランス語を学んで得たものは、あくまでツールであって、それを使ってその国のカルチャーを理解する、読解することができて初めて語学を習得したといえるのではないかと思っています。
その国のカルチャーというのは、言語以外も、服装だったり、挨拶の仕方などからもみてとることができます。たとえば名刺(business card)交換。これを見ても日本と欧米のカルチャーの違いを感じます。
日本では、会ってすぐに名刺交換をしますが、欧米では、最初に名刺交換はせず名前程度の自己紹介をしたら会話を始めます。その会話で、話が盛り上がってから「そうだ、Yoshiはビジネスカード持っているの?」といって、初めて名刺を交換する。つまり「もう一度会いたい」と思ったときに渡すのが彼らのカルチャーです。
また、「日本人はすぐに謝る」というようなことを聞きますが、海外にいて思うのは、むしろ日本人の方が謝らないこともあるということです。たとえば、道で歩いていて肩がぶつかったり、手荷物が人に当たったりすることがあります。日本だと、お互い何もいわずに過ぎていきますが、海外では「Sorry」といって必ず声を掛け合います。
それは、プライベートゾーンの違いだと感じていて、欧米の人たちは、個人のプライベートゾーンをとても尊重している。なので、その空間を侵害してしまったことに対しては、丁寧に謝るのです。
とくにアメリカは、さまざまな国の人たちが暮らす移民の国でもあります。日本がこれから移民を受け入れダイバーシティな社会を目指そうとするのであれば、そういったカルチャーを理解しておく必要もあると思います。
「変わらずここにいてあげること」の意味
言葉は人を表わす、という点で思い出すのは、僕が最初に修業したイタリア・リグーリア州のレストラン「サン・ジョルジョ(San Giorgio)」(一つ星)でのことです。
オーナーシェフのカテリーナ(Caterina Lanteri Cravet)さんに、僕は「支店を出さないの?」や「良い場所に移転をしないの?」というような趣旨のことを、何度か聞いたことがあったのですが、彼女は決まって「Essere qui come sempre」や「Se i clienti tornano, voglio essere sempre presente e continuare a fare le stesse cose per loro」と答えるんです。
日本語にすると「変わらずここにいてあげること」 とか、「お客様が帰ってくるならいつもそこにいて、同じものを作り続けてあげたい」というニュアンスなのですが、彼女が使う言葉の端々にやさしさや母性をすごく感じるんです。そして、レストランというものが、カテリーナさんたちにとってどんな存在であるのかということも、ものすごくよく伝わってくる。
イタリアに渡ってすぐ、26歳か27歳のときに聞いたこの言葉は、今も忘れられないですし、それ以降もさまざまな国を旅して、さまざまな国や地域のカルチャーを学んでいくなかで、カテリーナさんが言おうとしていることの意味が、さらに深くわかってくるようにも思えます。
今も当時もカテリーナさんは、僕にとって特別な存在でしたから、ほかのスタッフたちが「Mamma(マンマ)」や「Cate(カテ)」「Caterina」と親しみを込めて呼んでいても、僕は最初から最後まで、もちろんいまでも「Signora(シニョーラ:奥様)」と尊敬の気持ちを込めて呼んでいます。そのことをカテリーナさんは、すごくよろこんでくれて、僕のことをとてもかわいがってくれました。
自分が思っている気持ちをどんな言葉を使って、どんな表情で相手に伝えるか。それは正しい文法や覚えた単語の数とは違ったもので、語学を学ぶ本当の意味だと思っています。
人は集団で生きるために言葉を編み出した
言葉使いや話し方、その人のしぐさや表情などをとくに観察するようになったのは、オーナーシェフになってスタッフが増えてきてからのことです。
それまでは、剣道、水泳、キックボクシングと個人種目のスポーツばかりをやってきたことからもわかる通り、個人で究めたりすることの方が好きでしたから、料理も「自分の料理を!」と一人で集中して作り続けるタイプでした。
しかしスタッフが増えると、個人プレーではチームは動きません。それに、さまざまなプロジェクトを進めるなかで、辞めていく人がいればそれは自分のせい。たとえ「直属の上司と合わない」という理由だとしても、ポジションチェンジの指示を出せなかった僕のせいですし、「給料が安かった」という理由なら、僕の経営能力のなさが原因です。
スタッフのみんなが普段からどんなことを考えているのか、どんなことがモチベーションになっているか。それは、人それぞれに違うことで、一緒くたにはできないこと。相手をよくみて、言葉を選びながら導いていかなければいけないと考えるようになりました。
人間が一人きりで生きていくなら、言葉は必要ありません。集団で生きていくことを選んだときに、人間は言葉を使い始めました。つまり言葉とは、相手とコミュニケーションをとるためのもの、ツールとして生まれたものです。
僕が語学を大事にしているのは、そういった相手の考えをできる限り理解するように努めたり、想像できるようにするために、日本だけでなく日本以外の国のカルチャーも学んで理解することが大事になると思っているからです。
それは、お店にいらっしゃるお客様との会話も同じことだと思っています。前回の旅の話、そして今回の他国の言語・カルチャーの習得は、料理人として、そしてオーナーシェフとして、ブリアンツァグループがみなさまに愛される「帰ってくる場所」になるために大切にしたいことです。
「ラ・ブリアンツァ」オーナーシェフ
奥野義幸
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