不協和音は必ずしも不協ではない
今僕らを縛り付けているコードという概念
例えば「ドミソ」
これは中世ヨーロッパ時代には不協和音だった
ドとソを同時鳴らすことが普通で、そこにミは入れなかった
ドとミを同時に鳴らすこと、音楽でいう3度音程はイギリスの音楽で多様され、のちにヨーロッパに入ってくる
「なんかいい感じじゃね?」おっと3度使ってんじゃん的な
音楽は時代によって特色が違う
それは今も同じ
僕らの美意識とはいつから育まれるものなのか?
発達心理では外的要因、すなわち学習段階で親兄弟や他人から入ってくる情報によって感情は作られると考えられるわけだが、そうなると美意識なんかもそういうものなんだろう
あとは回数による慣れ
不協和音も50回も聞けば慣れるし、むしろ良く聞こえてくる
外人とか昔は全部一緒に見えてたけど、見慣れれば違いわかるようになったよね、的な
僕たちが常に嫌悪感を抱くのは、不慣れということだ
自分の中に今までなかったモノや事柄に対して、恐怖からバリアーを張ってしまう
これは、自分の中にあるものとの距離感によってレイヤー化されるので、全く遠いものについては完全なる拒否から始まって、近いモノは自然と受け入れられるという感じになるのではないだろうか
情報社会の現在ではその距離感も全体としては狭まってる気もするけど
そして、刺激の強いものほど拒絶してしまうが、慣れるとクセになるという感じは否めない
辛いモノとか酸っぱいモノとか、そういうのってそんな感じじゃない?
苦手を克服すると好物になる的な
しかもグレゴリオ聖歌などの教会音楽は禁欲的で秩序を乱すこと一切許さない世界で行われていた音楽
決められた中でこれが美しいとひたすらに続けていたものが、ある日戦争などの非常事態によって外からの刺激を受けずにはいられないように丸裸にされたようなものだろう
そんな時、欲望というのは歯止めがきかないのだ
一気に新しい刺激を求め取り入れてしまう
そんなところだろうか
知らんけど
見てきたわけじゃないから
でも、結局変化し続けているということはそういうことに違いない
今協和音だと思っているものも過去は不協和音だったように、今不協和音だと思われているものがいつ協和音として共通認識されことになるかはわからない
正しいことなど何もないということなのだ