マガジンのカバー画像

【長編小説】いつかの月ひとめぐり

31
毅は会社の金をくすねてボコボコにされ河川敷に捨てられた。その日、父親からの連絡で聞かされたのは、兄が職場で倒れ意識不明の状態だという事。ワケあって兄に預けていた娘の今後について話…
運営しているクリエイター

記事一覧

いつかの月ひとめぐり #31 靴音

 パンを口に咥えたまま、トンカチやらバールのようなものが入った大きめの道具箱をうんしょと持ち上げて、スチール物置の引き戸をバンと閉めた。驚いたスズメが3羽、庭の木から飛び去っていく。空は今日も蒼く澄み渡っていて、もう6月だってのに梅雨入りしそうな気配がない。まぁ作業しやすいからそれでいいんだけど。 「ちょっと毅、朝から大きな音出さないで。近所迷惑じゃないの」 「どこに近所の家があんだよ。最寄りの宅まで歩いて1分かかるんだぞ」 「知ってるわよ、回覧板届けたんだから。ものの例え

いつかの月ひとめぐり #30 おかえり

 列車のドアが開く。俺は悠希と手を繋いだまま、ホームへ降り立つ。強めの陽光に目を顰めながらサァ行くぞっと歩き始めようとした瞬間、後ろから右手を思いっきり引っ張られた。 「伍香ちゃん、本当に私でいいのかな。さっき言ってた香織さんて人の方がいいとかないかな」 「だから、そういうのじゃないって。あとで拗れないように教えただけで、伍香はハッキリお前がイイって言ってた。自信持って、ホラ行くぞ」 「うん……。あー、すっごくドキドキしてきたっ。ゲームでもこんな心臓バクバクしたことないよ。

いつかの月ひとめぐり #29 光

 しばらくテーブルの前で立ち尽くしていた。悠希の手を前に出す動作で正気に戻され、促されるがままにとりあえず、2人掛けテーブルの小洒落た椅子に腰掛けてグルッと店内を見回す。赤と黒の2色を基調としていて、およそ30人くらい分の席が用意されており、無垢っぽいフローリングに大きな観葉植物、壁の木製棚には洋書ズラリ。なるほどオシャンティなカフェって感じだ。 「何か頼む?」  悠希がメニュー表を寄越してきた。さっきまで蕎麦屋で水やら蕎麦湯やら飲んでたから喉は乾いていない。でもここで頼

いつかの月ひとめぐり #28 思惑

 ぐいぐい引っ張られる腕を振り解き、なんでか意外そうな表情の窪田さんへ嘆願する。そう俺はトイレに行きたくてしょうがないのだ。 「まず便所に行かせてください。漏れそうなんです」 「ありゃ、そりはそりは大事件になるとこだったねぇ。どうぞ行きなすって」  やれやれ。窪田さんが進もうとしていた向きの反対側に、トイレはあった。入ってすぐ逃げ道を探してみるも出られそうな窓など無い。諦めて用を足し、しっかり手を洗ったところでハンカチを忘れたことに気付き、これまた諦めてハンドドライヤーの

いつかの月ひとめぐり #27 プレゼント

「今日だっけ、パパが長野行くの」  朝飯をかきこんでいたら、不意に伍香からそう訊かれた。喋ろうとして急ぎ飲み込むと喉につっかえて逝きそうになったがなんとか耐え、少々咽せる程度の被害で済ませる俺有能。 「ゴホォっ……、ふぅ。ぞうだ。ぎっどぐがおばえぉづれでがんぞ」 「なにそれ呪文? 新しい呪文覚えたの?」 「うおっホン! はぁしんどかった。……お前は連れてかないぞって言ったんだ。もう勝手に学校休むなよ」 「あのときはね、パパが逃げると思ったから。もう大丈夫でしょ」 「まぁな

いつかの旅ひとめぐり #26 突入

 水平線に浮かぶ狂ったような橙色の朝焼けを観ながら、草木濡れ木々の葉揺れる小径を駆け抜けていく。こっちに来てから週3くらいのペースでランニングしていただけあって、さすがに多少長く走っても息切れしなくなってきた。腕につけられた傷もほぼ見えなくなったし、なんだか色々あって半年ほど経ったような気分なんだけど、まだひと月ぽっちも過ぎてないんだよな。 「はよっすパパさん! 今日も走るの遅いねっ!」 「うっせぇ。健康のためなんだからこんくらいでいいんだよ」  しばらく並走した後、自販

いつかの月ひとめぐり #25 あふれる

「あっ、パパもう始まりそうだよ早く早く!」 「まだ守備練じゃねぇか。別にプレイボールの瞬間を観に来たわけじゃなし、焦って歩いてると転ぶぞ」 「そんなマヌケじゃないもん。わぁッ!」  ほら見ろ、やっぱ転けた。砂地の上を前転してワンピースもレギンスも砂まみれになる伍香。盛大に上がった砂煙を見て、投球の練習中だったレイが右手にソフトボールを握ったまま走り来る。緑と白のツートンカラー、昭和かと思うような渋いユニフォーム姿のレイは、普段とは少しだけ違う緊張の色を湛えている。 「伍香

いつかの月ひとめぐり #24 いつかの旅

 少し考える時間が欲しいと言った香織に、これ以上伝えることはなかった。連絡先を交換し、カフェを出て、それじゃあと別れの挨拶をしようって時。香織がぱんと両手を合わせて、何か閃いたわたしって凄いみたいな表情をした。さっきまで泣いていたせいで腫れぼったい上下の瞼をガッと見開き、ワンオクターブ高めの声を出す。 「ね、タケシくんたちってもう、泊まる所決めた? まさか今日の今日でこの時間から帰ろうとしてないよね」 「あー、そうだった。帰るつもりはなかったけど、そういやホテル探してないな

いつかの月ひとめぐり #23 親子

 第一声を何も考えておらず、あぁどうも、なんて口先だけの挨拶をボソッと呟き、俺は四人掛けテーブルに着いた。いち早くメニューとにらめっこして何を注文するか話し合っている伍香と美咲さんの相向かいになる。隣の席には半笑いの叶人さん。 「憶えてるならもう毅さんの紹介は要らないよね。香織さんさぁ、もうすぐ仕事終わりでしょ。どこかで毅さんの話を聞いてあげてくれないかい?」  香織は叶人さんから俺、そのあと伍香へと視線を移動させていく。仕事用の愛想笑いからは拒否とも歓迎とも判断できかね

いつかの月ひとめぐり #22 車中にて

 軽バンの中は至る所にペンキが飛び散って固まっている、さながら不細工なアートの世界。加えてシンナーの残り香とヤニ臭さによって鼻をひん曲げてくるというちょっとした地獄だ。この車内に似つかわしくないブランドもののショルダーバッグを手に持って最後に乗り込んだ美咲さんは、にわかに咳込む。 「叶人ぉ、くっさいから窓開けてよ。こっちのスイッチ壊れてるみたいカチカチカチカチ」  運転席に座った叶人さんはフンと鼻を鳴らし、ウインドウロックを外す。はたして美咲さんは後部座席のドアガラスを全

いつかの月ひとめぐり #21 探偵

 列車は小雨降る中を進みゆく。目の前には、ここに居て当然ですが何か? とでも言いたそうなあっけらかんとした表情の我が娘。さてコイツどうしてくれよう。まず……平日であるはずの今日、間違いなく朝ランドセルを背負って小学校へ行ったよな。それがどうして俺と同じ列車に乗っているのかという疑問を潰しておきたい。 「兄貴にも今朝ギリギリのタイミングで言ったんだぜ。あと知ってるとすればルイさんくらいか。とりあえず、お前なんでついて来ようと思った?」 「えっとね、しらせてくれたのはレイちゃん

いつかの月ひとめぐり #20 リノベ

 朝早く親父に起こされ、連れられて家をぐるっと周らされる。どこに行くのやらと怪しんで歩いていたら、なんと遠征先は裏庭の片隅で時が止まったままのボロボロ小屋だった。監禁するつもりですかって冗談で言おうとしたけど通じないだろうからやめておく。身勝手にも親父は俺を放置して、小屋の外側を彷徨きながら朽ちた外壁や剥がれたトタンなんかをしげしげと見つめている。 「なあ、何用だよ」 「毅がこの小屋を修理して、使ったらどうかと思ってな。材料費は出すし電気工事は知り合いの業者に頼んでやる」

いつかの月ひとめぐり #19 にじむ

「伍香ァ! おーぅい伍香ぁ!」  海岸沿いに走ったり堤防の階段を上がって眺め廻しても、それらしい影など見つけられず。めったやたらに探索しながら兄貴へ電話をかける。くっそぉ家に戻ったわけでもないか。かくれんぼするには広過ぎる舞台で、ヒントも与えられず右往左往するだけの無駄な時間が過ぎていく。事故に遭ってないこと、事件に巻き込まれてないことを願いつつ、少しでも足を動かして早く、なんとか早く見つけ出さねぇとって走り続ける。 ──プピィ!  後ろからの妙な音につられて振り返る。

いつかの月ひとめぐり #18 はじける

 昨夜から今朝にかけて、伍香とひとつも言葉を交わさなかった。おそらく窪田さんの軽々しく放った断末魔が影響しているものと考えられる。まったくとんでもねぇ事をしてくれたもんだぜ。そんなわけで、あいつがランドセルを背負って学校へ向かったあと独り台所でモソモソ朝食を取りながら、今後の活動方針について考えを巡らせ巡らせしていた。 「おーい、毅。病院行ってくるから留守番頼むぞ」 「へぃへぃ。……あれ、そんな不格好でいいのかよ。スーツでバシッと決めてったらどうだ」 「どこの世界にリハビリ