いつかの月ひとめぐり #24 いつかの旅
少し考える時間が欲しいと言った香織に、これ以上伝えることはなかった。連絡先を交換し、カフェを出て、それじゃあと別れの挨拶をしようって時。香織がぱんと両手を合わせて、何か閃いたわたしって凄いみたいな表情をした。さっきまで泣いていたせいで腫れぼったい上下の瞼をガッと見開き、ワンオクターブ高めの声を出す。
「ね、タケシくんたちってもう、泊まる所決めた? まさか今日の今日でこの時間から帰ろうとしてないよね」
「あー、そうだった。帰るつもりはなかったけど、そういやホテル探してないな」
「パパ旅行ヘタクソだね」
「まさか今、岐阜に居るなんて思ってもなかったし、余計なモンまでついてきてるし、そりゃイレギュラーだらけなんだから誰だってこうなるだろ」
という俺たちのやり取りを苦笑いで聞いていた香織は、東の方へ向けて指差した。なんだどっかの銅像の真似でもしてるのか。
「歩いて行ける距離に、格安か無料で泊めてもらえそうな宿があるよ。古い建物でちょっとカビ臭いかもしれないけど、そこでいいなら案内する。どう?」
カビ臭いというワードに伍香がどんな反応をするのか、顔色を窺ってみたものの特に拒否や嫌悪の表情を見せることはなかった。寂れた旅館って感じならまぁ、寝るだけなんだし大丈夫じゃないかな。
「伍香がイヤでなければ。ちなみに格安の理由は?」
「わたしが前に働いてたっていうか寝泊まりしてたトコなの。去年お客さんを泊めるのやめちゃって、今は時々わたしが掃除だけしてる。もしかすると、おかみさんのお子さんが戻ってきて継いでくれるかもしれないからってね。ごく僅かな望みだけれど」
伍香が俺の袖を引っ張る。
「あたし、そこでいい。でもお風呂あるかな」
「近くに銭湯があるから、汗を流すといいわ。そこも随分古くなってしまったけど湯の質はすっごく良いのよぉ」
特に言葉を交わさずとも、伍香の表情で解った。コイツはどうやらそこに泊まってみたいようだ。ちょっとした冒険心の芽生えか。それで俺が答えようとするのを香織は右手で制し、ハイハイわかってますと言わんばかりに余裕の笑みをこぼした。
「じゃあ行きましょうか。歩いて行ける距離とは言ったけど、高低差が無いとは言ってないから頑張ってね」
悪戯な微笑みをチラリと見せて、彼女は先頭きって歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……なんであいつら疲れてねぇんだよぉ。
俺のはるか先を行く伍香と香織は何やら和気藹々、すっかり友だちみたいになって喋っている。叶人さんの言ってた通り、伍香は相当に人懐っこいんだなと実感。ちょっと前に口喧嘩っぽい展開してたふたりとは思えんな。
もうどのくらい緩やかな傾斜を上がって来たのだろう。夜なのに風がほとんど無いせいで歩行を続ける身体は火照り出す。そしてシャツは汗でベタベタ、喉が乾いて息絶え絶え。なぁにが歩いて行ける距離だよメッチャ遠いじゃん。
「あの、かお……、ちょっ……ま……」
「えええ、タケシくんこんなのでバテたのぉ? 伍香ちゃんなんともないよ」
「だってパパ、運動不足だから」
「早くお仕事に就いてバリバリ動いてもらわないとねー」
「ねー」
クソぉ、調子に乗りやがって。しかも俺の近況をペラペラ伝えてやがるな。大体こんなに疲れるのはアレだ、今日は車に乗ってる時間が長かったからな、体が萎えてんだ。普段ならこんな坂なんてッ。
「着いたよ。ここが今日、伍香ちゃんたちの泊まる所。趣があってイイ感じでしょ。中はもっとボロ……古めかしいわよ」
「ゆうれい、でそう」
「出るかもねぇ。なんせ百年以上前の建物だから。大丈夫きっとパパが守ってくれるよ」
「でも、パパが今すぐしにそう」
坂の上からコチラを見下ろし、すごく冷たいトーンで伍香は詰ってくる。いやぁしかし、俺も歳をとったってことかな。香織も同い年のはずなんだが。……ハァ、ハァ。くぅ~、ようやく上りきったぜ。
「おー、こりゃボロボロだな。今にも倒れちまいそうだ」
香織が口の前で右手の人差し指をピンと立てる。黙れということか。
「入り口の横におかみさんの部屋があるの。耳が遠いから聴こえてないと思うけど、あんまり露骨にディスっちゃダメ」
「ああ、それはすいませんでした」
「一応、声だけかけとくね。2階に上がって、左の奥の部屋。2か月前までわたしが使ってた部屋よ」
香織が先頭で建物へ入り、次いで俺、若干引き気味の伍香と続く。「スタッフルーム」と手書きされた扉の前で香織を置き去りにし、俺たちだけ薄暗い中2階へと向かう。足先で踏みつけた瞬間少し凹み、ギシィッと盛大な軋み音を立てる階段。極めて慎重に上がっていき、今にも消えそうな裸電球の明かりだけの通路を、これまたそぉっと抜き足差し足で歩いて辿り着いた奥の部屋が香織の言ってた場所か。
生唾を飲み込んだあと、俺は真鍮っぽい錆色のドアノブを回した。
「……あれ? 意外と綺麗だな」
「あたしも見るゥ。あ、ほんとだキレイ。虫もいないね」
しかも部屋の扉を開けたら勝手に天井のシーリングライトが点った。まるで扉の向こう側とこっち側が違う時代とか世界にあるようだ。なんというか、違和感しか無ぇ。
俺も伍香もホッとひと息ついて、同時に部屋へ入る。バッグを隅っこに置いて本棚に並んだ資格試験とか経営ハウツー本とかの背表紙を眺めていると、開け放ったまんまの扉がノックされた。
「お布団ふたり分用意しとくから、銭湯行ってきなよ。さっき坂を上がってくる途中にあったでしょ」
「気付かなかったな。伍香お前、分かるか?」
「うん。場所おしえてあげる」
香織が含み笑いするのを、俺は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
銭湯で歯磨き髭剃り洗体を済まし、アッツイ湯に浸かって火照ったまま、遅れて女風呂から出てきた伍香と合流して戻り道を進む。元は宿でも今ボロ屋、どう見ても人が住んでるとは思えない宿の前まで戻ってきた。でも今日はここで寝るしかないと潔く入口を開け、階段ギシギシ2階へ。
「あら、早かったのね」
盛大な足音で気付いたのか、香織が居室から顔だけ出してこちらを覗く。その不審な動きにとても嫌な予感がした。何かトラブルか想定外の事態が起きているのでは。
「あのね、おかみ……管理人さんに、いきなり知らない人を泊めるわけにはいかなくて、どうしてもならわたしも一緒に泊まってけって言われたんだよ。だから……ホラ、3人分。ぎっちぎちだけど伍香ちゃん細いから大丈夫だと思う」
「わぁ。ホントに……なんて言うんだっけ、ど忘れした」
「足の踏み場も無い、だな」
「そう、ソレ。パパやるじゃん」
「うるせぇ。……香織はいいのか? じぶん家に戻らなくても」
「まぁひとり暮らしだし。元々ここに居たんだから全然問題ないよ」
そうですかそれならと部屋の中へ入ろうとした瞬間、後ろにいた伍香が真ん中の布団に飛び込んでいった。まさにバフンと聞こえる間抜けな音とともに、伍香の体は羽毛布団に取り込まれてしまう。
「お前、やめろよ埃が舞うだろ」
「うわー、羽根も舞ってるねぇ。もうこのお布団、限界かな」
動こうとしない伍香を退かすため、近寄ってみたら。
「おいおい、もう寝てやがる。軍隊式の睡眠方法でも習得してんのか」
「きっと疲れてたんだよ。だってまだ小学5年生なんでしょ。それに今日はすっごく張り切って、わたしを説得してくれてたもの」
仕方ないから追加でタオルケットを掛けてやり、俺と香織は伍香に分断されるかたちで横になる。そのあとすぐに消灯。チックタックと時を刻む音が部屋の静寂を等間隔に切り裂く。しばらく経っても寝付けず、閉めきったガラス窓に大きめの虫がぶち当たる音を聴いてボンヤリしていた。
「ね、タケシくん」
「……まだ起きてたのか」
「考えてたの。もしわたしが知多に帰るとするじゃない。もしも、よ。玲我もお母さんもいいよって言ってくれたとして、じゃあこれまでの、わたしの14年間って一体何だったんだろう。結局お母さんが借金返すのなら、無駄な時間を過ごしてきたってことでしょ。それだったら最初からあの家に戻ってれば良かったのに。わたしは意味もなくこの町で寂しい生活を送ってきたってこと? 自業自得とはいえ神様酷くない?」
なんかデジャヴだなと思ったらそうか、俺の状況にちょっと似てるんだ。どっちも実家に帰ったらそれまでの自分を、家から出て暮らしていた時間を否定することになる。あの場所が嫌だから出たはずなのに、なにがしかに失敗して何も持たず、いやむしろマイナス要素だけ持ち帰る。悔しいというか、情けないというか。
でも……。
「俺たちはさ、旅をしてたんだと思う」
「旅……? タケシくんは旅行中だけど、わたしはずっとこの辺にいるよ」
「そうじゃなくて。旅ってどっか行くだけじゃないだろ。例えば何かに挑戦したり、知らないことを知ったり、新しい出会いがあったり。言うなれば人生そのものが旅じゃん」
「いきなりどうしたの。頭打った?」
「違ぇよ。でさ、旅って絶対帰るよな。どこに行ったって最後は家に帰る。俺たちは生まれた場所に戻るんだ。俺たちは大切なことを知るための旅に出てた。生まれた場所が実はすごく良いトコだったんだって分かった。だからその長い旅はもう終わっていいんだよ。そのうち、いつかこんな旅もしたよなって笑って振り返るんだ。あとは何を持って帰るかなんだけど、それが悪いモンだって別にいいじゃねぇか。それをヨシとしてくれる誰かが待ってんなら、借金でも情けない自分でも、胸張って持って帰ってやろうぜ」
「極論だねぇ。まるで皆がタケシくんの帰りを待ち侘びてるみたい。そんな自信過剰キャラだっけ」
本当は違う。これは口から出任せだ。俺だって受け入れてもらえる自信なんて無い。いざ帰るって言った時にどんな反応されるのか想像するのは怖いし、長野にいる悠希はどうすんだって問題も棚の上に飾ったまま。ただ、目の前で悩む香織を説得したいだけなんだ。それは勿論、レイのために。
「あの約束、憶えてるか? 屋敷の縁側でやった指切りげんまん」
「忘れるわけない。初恋の人からのプロポーズだったんだもの。大人になったら知多に戻って、結婚して、タケシくんがずっと守ってくれるって約束だよね。でも伍香ちゃんから聞いたけど、今タケシくんには恋人がいるそうじゃない。そんな人に守ってもらえないよ」
「だからもう一回、違う約束しよう。香織が戻ったら俺も知多に戻る。悠希……彼女のことをどうするかは、また考える。とにかく俺は、俺のできる限りお前とレイを助けるって誓うよ。……まぁ、その前に仕事探したり住処探したり色々やらなきゃいけないけど。お互いもう絶対逃げないって約束、今しよう」
「ねぇ、どうしてそんなに焦ってるの? 今じゃないとダメ?」
「このまま明日帰ったら、レイに顔向けできないのさ。あいつは伍香を助けてくれた。今も守ってくれてる。その恩を返したい。俺ができなかったことを代わりにこなしてくれてた玲我に、まとめて全部返してやりたいと思ってる。俺はお前を絶対アイツに会わせる。そう決心したのはついさっき、伍香の演説聴いてる時なんだけど。でもそれが俺の答えだ」
香織はプッと吹き出して、声を抑えようと枕へ顔を埋めた。暗がりの中しばらく動きを見せなかったが、やがて顔を上げると右手を差し出してきた。
「本当にひっどい説得の仕方。可哀想だから約束してあげるよ」
彼女がピンと立てた小指に、俺は小指を絡める。小さなイビキをかく伍香の上で、あれから途方もない時間を経て新たな約束が取り交わされたのだ。
「タケシくん、わたし、やっぱりあのまま、あの場所で……。タケシくんと、一緒に……暮らしてれば、よかった。そしたら、きっと、わたしたち……」
虫の羽音、さえずり、木々の葉の擦れる音、遠くでバイクが走り去る音。それらの音に、啜り泣きの音が混じる。ただ黙ってそれを聴いていた。香織が泣き疲れて眠るまで、俺は絡めた小指を離さなかった。