伊豆国の鈴木氏(2)ー本拠地の江梨村について

明応2年(1493)に北条早雲が伊豆に侵攻すると、当主の鈴木繁宗(しげむね)はいち早く早雲のもとに参戦し、以降後北条氏に水軍武将として仕えました。繁宗の後を継いだのは土岐氏から娘婿となった鈴木繁朝(しげとも)で、彼は後北条氏から派遣されて武田信玄の第二次川中島合戦に参加して信玄から感状をもらっています。繁朝の子供(三男)の繁定(しげさだ)は後北条氏からたびたび駿河湾の沿岸警備の指令を受けています。後北条氏との親密な関係から豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡により鈴木氏も一挙に勢力を失ってしまい、その結果江戸時代初期の鈴木繁義(しげよし)の代で絶えてしまいます。
伊豆の鈴木氏の本拠地である沼津市西浦江梨には鈴木氏ゆかりの場所がいくつか残されています。
北条早雲の伊豆侵攻の5年後の明応7年(1498)に明応地震が起き、地震による津波が江梨村を襲い、多くの村人が亡くなり、鈴木氏もその家系図や財宝が屋敷もろとも流されてしまいました。さらにこの津波で繁宗の娘が両眼を患い、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完治したと言われています。
その航浦院(こうほいん)ですが、寺の名前としては珍しいです。さすが水軍の将の菩提寺らしい名前です。山号は満行山(まんぎょうざん)。沼津市西浦江梨149にあり、臨済宗円覚寺派。本尊は繁宗の娘の眼を治したという薬師如来。建武3年(1336)杉本左京大夫鈴木繁郷の開基です。
航浦院に隣接して海蔵寺(かいぞうじ)があります。この場所には鈴木氏の館がありましたが、その遺構は東海地震の津波で流されてしまいました。海蔵寺も臨済宗円覚寺派。沼津市西浦江梨161ー1。本尊は釈迦如来。江梨バス停から徒歩3分。
江梨鈴木氏の初代鈴木繁伴が江梨村に定住して祭祀を行ったという大瀬(おせ)神社は、沼津市西浦江梨329にあり、式内社(小社)の引手力命神社の論社てす。したがって主祭神は引手力命(ヒキテチカラノミコト)。正式には引手力命神社ですが、今日では大瀬神社と呼ばれることが多く、また大瀬明神とも言われています。なお、伊豆国田方郡には伊東市十足(とおたり)150番地(静岡県神社庁は250、大室山北麓)に引手力男(ひきたぢからお)神社があります。どちらが式内社であるのかは決定的な史料がないため不明です。引手力男神社には、伊豆に流された役行者が密かにこの山中に入って修行したという伝承があります。引手力命を天手力雄神とする説がありますが、一般に天手力雄神は山の神とされるのに対し、引手力命は海の守護神であり、二つの神は別の存在と考えられます。創建時期は不明ですが、一説には白鳳13年(684)に発生した大地震に伴って海底が隆起して「琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海に沈んだ土佐国から神が土地を引いてきたのだと考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初とも言われています。出雲の国引き神話に似たスケールの大きな話です。神名からも力の強い印象を受けます。琵琶島はその後砂州が形成されて陸と繋がり大瀬崎(おせざき)と呼ばれるようになりました。
平安時代末期には源頼朝、北条政子が源氏の再興を祈願して武具を奉納し、願いが叶って鎌倉幕府が成立して以降、多くの武将が弓矢や太刀を奉納するようになりましたが、度重なる地震や津波で全て流されてしまい、砂の中からそれらの一部が見つかり、地元の人々がこれらを奉り、何時とはなしに再興されて現在に至っています。境内には伊豆七不思議の一つ、「大瀬明神の神池(かみいけ)」があります。国の天然記念物であるビャクシンに囲まれ、海から最も近いところでは20mほどしか離れてなくて標高も高くなく、海が荒れると波しぶきが寄せるほどなのに淡水の池で、コイやナマズなどの淡水魚が多数生息しています。池の最長の長径が100mほど。なぜ淡水なのかは不明で、神域であり、古くから池を調べたり、動植物をとったりすると祟りがあるとされ、池の調査が全くされておられず、水深すらわかっていません。七不思議の名にふさわしい神秘的な池です。
大瀬神社に路線バスで行くには、沼津駅から西浦線「大瀬岬行」終点下車。沼津駅からは80から90分程度かかります。









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