禅児か禅師か?(1)
前章の「熊野垂迹神曼陀羅」を書いていて気になりました。五所王子の第五殿、オシヲミミを祀る宮が、ウィキペディアでは「禅児宮」となっていますが、和歌山県立博物館の図録には「禅師宮」。どちらも読みは「ぜんじのみや」です。私は本来は「禅師宮」だと思います。その理由は、まず「禅師」という言葉です。これは「禅定(ぜんじょう)」に通達した僧侶を表す言葉です。禅定とは、瞑想により雑念を払い、何事にも惑わされない境地のことです。そういう境地に達した僧侶が「禅師」。神仏習合の熊野権現にはふさわしい名前だということが一つ、さらに古い文献には「禅師宮」と出ております。それを調べていて目をひいたネットの記事があります。これには垂迹神曼陀羅に出ている十二所権現以外の神についても資料が引用されています。その中から二つ資料を取り上げます。詳しくお知りになりたい方は「熊野本宮大社ー本地垂迹資料便覧」を検索してください。なお、この資料を読む時は「本宮大社の祭神と本地仏(1)(2)」を参照して読まれたら理解がしやすいと思います。まず「長秋記(ちょうしゅうき)」です。長承三年の、二月一日の記録です。「招先達、問護明本地、丞相(じょうしょう)、和命家津王子、法形阿弥陀仏、両所、西宮結宮、女形、本地千手観音、中宮、早玉明神、俗形、本地薬師如来、已上三所、若宮、女形、本地十一面、【禅師宮】、俗形、本地地蔵菩薩、聖宮、法形、本地龍樹菩薩、児宮、本地如意輪観音、子宮、正観音、已上五所王子、一万普賢、十万文殊、勧請十五所、釈迦、飛行薬叉、不動尊、米持金剛童子、毘沙門天、礼殿守護、金剛童子」。「長秋記」は源師時(みなもとのもろとき)の日記です。ここに引用した部分は師時が鳥羽上皇と待賢門院(たいけんもんいん、崇徳•後白河の生母)の熊野御幸に同行した時の記録です。長承三年は1134。御垂迹縁起よりも前です。「長秋記」は熊野御幸の記録として重要ですから、熊野御幸について述べる場合にあらためて取り上げます。先達(せんだち、せんだつ)は、この場合は、熊野御幸の案内役ということになります。ここで注目したいのが、本宮を丞相としており、さらに日本名を家津王子としていることです。丞相は、律令制下で国の最高機関として太政官が設置され、その長官である左大臣、右大臣を左丞相、右丞相と言いました。右大臣菅原道真を「菅丞相(かんじょうしょう)」と呼ぶ例があります。証誠という言葉で本宮の祭神が表現されていないことがポイントです。次の資料は「修験指南しょう」。「しょうは金偏に少」。この資料は中世後期の修験道の聖典で、現代語訳が出版されています。これは要点だけにします。「第八、十二所権現御地之事」に、本宮証誠殿、西御前、結尊•伊弉冊尊、中御前、号早玉尊•伊弉諾尊、若宮女一権現、号若殿、天照太神御身、深秘也。五所王子の一つとして【禅師宮】と書かれています。四所明神では、一万、本地文殊、十万、本地普賢、並んで祀られているとあります。そしてこの資料で注目されるのが、それぞれの本地仏が誰によって顕現されたかが書かれていることです。熊野権現の本地の阿弥陀如来は婆羅門僧正、千手は弘法大師、薬師は伝教大師、若宮は智証大師、禅師宮は源信僧都、聖宮は千観内供、児宮と子守宮は静観僧正。一万と十万は慈覚大師、勧請十五所は雅顕長者を祭神とし、本地仏は婆羅門僧正の顕現。飛行夜叉と米持金剛は智証大師の顕現。以上が四所明神で、熊野権現の眷属神であるとしています。有名な僧侶は省略して、あまり知られていないと思われる人について説明します。婆羅門(ばらもん)僧正は奈良時代インドから渡来した僧侶で、菩提せん(遷のしんにゅうがにんべん)那。東大寺大仏開眼の導師を務め、760年没。雅顕長者(がけんちょうじゃ)は「玉置山権現縁起」によると、御垂迹縁起に出てくる猟師の千与定の長男で、弟が阿須賀大行事とあります。千観内供(せんかんないく)は918から984年の天台宗の僧侶で、三井寺に入って出家、後に空也の影響を受けて浄土教に傾倒し、信者集団を作った人物。静観(せいかん)僧正は、843から927年の天台宗の僧侶で、元の名は増命(ぞうみょう)。第10代天台座主。眷属神(けんぞくしん)は、眷属は家来という意味ですが、本地垂迹説では大きな神格に付属する小さな神格で、代表的なものに王子神があります。かなり長くなりましたので、章をあらためて続けます。