御船祭の早船

さて10月16日の御船祭の早船(はやふね、はやぶね)競漕(きょうそう)の結果はどうでしたでしょうか。予定通り行われ、見物人からの盛んな声援を背に、ゴールしたあと出発地点に戻る「下り」も競ったそうです。
御船祭の神事については「新宮の祭ー御船祭」で、諸手船については「御船祭の諸手船」で書いています。この章では御船祭のハイライトである地区対抗で盛り上がる「早船競漕」を取り上げます。新宮ゆかりの人物で、早船の出発地点になっている「丹鶴(たんかく)ホール」の名前の由来の「丹鶴姫」についてもご紹介します。城主の水野氏についても。
祭の一週間前の10月9日、9隻の早船は漕ぎ手の青年たちによって大社の倉庫から出されます。早船はスギやヒノキで造られており、長さ約9m、最大幅1•5m。各地区名が書かれた幟(のぼり)を掲げ、若者が11人ずつ乗り込み、熊野川で速さを競います。16日午後4時半頃スタートして、約1•6km上流の御船島を3周します。
祭の1ヶ月前には櫂(かい)作りが紀宝町で最盛期を迎えます。軽くてしなりが良いという椎(しい)の木を加工し、それぞれの漕ぎ手の身長に合わせ、9月末までにおよそ100本の櫂を作ります。
11日の夜には、大社の双鶴殿で地区の旗番を決めるくじ引きが行われます。参加する9地区の代表者が出席し、宮司や審判員が見守る中抽選か行われます。各地区の代表者はお神酒を受けたあと、予備抽選があり、その後本抽選に移ります。9地区全てが引き終わると一斉に開封し、審判委員から旗番が順に読み上げられます。下流から上流に向かって1番からになります。当然ながら御船島に近い9番船が有利ですが、それを追い越そうと必死に漕ぐ船と、追い越されてなるものかと頑張る地区の名誉をかけたせめぎ合いが繰り広げられます。応援の船もでてヒートアップします。上半身裸の漕ぎ手は力の限り櫂を操り豪快に水しぶきを上げながら競漕したあと、乙基(おとも)の御旅所のある河原(上札場)に着岸します。「那智の火祭り」も豪快な祭ですが、これもそれに負けない迫力です。熊野水軍の伝統が生きています。
令和5年(2023)の旗番は、有利とされる最上流の9番が丹鶴区、8番春日区、7番阿須賀区、6番千穂区、5番王子区、4番明神区、3番大王地区、2番神倉区、1番堤防区。当日、夫須美神の神霊が神幸船に遷された後、丹鶴ホール下の河原(下札場)から出発します。
「丹鶴ホール」は、令和3年(2021)に出来た新しい施設です。新宮市文化創造施設として、ホール、図書館、熊野学センター機能が一体となった市の文化交流拠点です。 
ホールの愛称や、早船9番にもある「丹鶴」という名前ですが、新宮城の別名でもあります。城のある場所はかつて丹鶴姫が住んでいた場所だと言われています。姫は鳥居禅尼(とりいのぜんに)と言い、源為義の娘。義朝(頼朝の父)の異母姉とも妹とも言われ、以仁王の令旨を諸国に伝えた新宮十郎行家は同母弟。16代熊野別当長範の子行範と結婚して「立田原(たつたはら)の女房」と呼ばれ、娘の1人は21代熊野別当湛増の妻。夫の死後剃髪して鳥居禅尼と名乗り子どもを育てます。新宮別当家は鎌倉将軍家の一族として厚遇され、熊野三山内外にその勢力を伸ばしていけたのは彼女の存在があったからです。1210年頃かなりの高齢で死去したと伝えられています。
新宮城主の水野家は、初代紀州藩主徳川頼宣の付家老となり、石高は3万5千石ですが、あくまでも徳川家の家臣という立場であり、大名ではありません。また江戸詰めで参勤交替もなく、新宮には家臣を派遣しました。



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