金津荘と賀茂神社ー賀茂神社の概史の2

 賀茂神社は平城天皇の大同元年(806)に金津荘の鉢伏(はちぶせ)に英田郷から遷座されました。そして翌大同2年(807)には夢のお告げにより現在地に遷りました。そして平城天皇の勅願所になります。大同四年(809)には相殿に貴布祢神を勧請しました。
 平城(へいぜい)天皇(774~824、在位806~809)は桓武天皇の第1皇子。桓武天皇は最初は弟の早良(さわら)親王を後継者にしていましたが、早良親王(崇道天皇)は政争に巻き込まれて悲劇的な最期を遂げました。それで桓武天皇は平城天皇を皇太子にしました。平城天皇は桓武天皇の崩御を受け、大同元年3月17日に践祚します。賀茂神社は平城天皇の践祚後間もなく、津幡町から遷り、さらに翌年には現在地に遷座し、平城天皇の勅願所になります。賀茂神社の境内には「平城天皇勅願所」の石碑が建っています。平城天皇は賀茂神社に6200歩余の土地を寄進します。平城天皇がどういういきさつで賀茂神社を勅願所としたのかはわかりません。平城天皇は病弱であり、それがもとで同母弟の嵯峨天皇に譲位します。そして平城宮に移住します。平城天皇は自分の妃の母である藤原薬子(くすこ)と不倫関係にあり薬子を溺愛し、それにより薬子と兄の仲成(なかなり)が朝廷で台頭します。二人は嵯峨天皇への譲位に反対します。平城天皇は譲位後体調が回復し、次第に嵯峨天皇と対立するようになります。不穏な動きを察知した嵯峨天皇は先手を打って坂上田村麻呂を派遣します。平城上皇は東国に向かいますが、田村麻呂に阻止され平城宮に戻り出家します。薬子は服毒自殺をし、仲成は射殺されます。この騒動の結果、嵯峨天皇の後継者になっていた平城上皇の皇子の高岳(たかおか)親王は廃太子となり、嵯峨天皇の弟が後継者になります。淳和天皇です。この騒動の時に越前介の安倍清継らが上皇の御幸に合わせ挙兵を企てましたが上皇方が敗北したので失敗に終わりました。こういういきさつからすると平城上皇が東国に向かったとあるのは越前国であったのかもしれません。この時点では加賀国は建国されていませんでしたから、かほく市の賀茂神社も越前国に属していました。この騒動の際に嵯峨天皇側から空海に天皇方が勝利を収めるように祈祷の依頼があり、それが功を奏したことで、これ以降空海が日本仏教界の実力者になる契機となりました。その空海の十大弟子の一人と言われたのが廃太子となった高岳親王です。親王はその後出家して真如入道(しんにょにゅうどう)親王と名乗り、仏法を求めて老齢ながら入唐し、その後さらに天竺に向かい消息を絶ちました。高岳親王は平城天皇の第3皇子ですが、第1皇子は阿保(あぼ)親王で、在原業平の父親になります。在原業平は美男だと言われていますから、阿保親王も美男だったかもしれません。阿保親王の墓は兵庫県芦屋市翠ヶ丘町(みどりがおかちょう)にあり、宮内庁で「阿保親王墓」として管理されています。


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