源頼義と河野親経が関わった寺院ー繁多寺
「愛媛県史」によると、源頼義と河野親経は伊予国において49の薬師堂の創建または再建に関わったとそれぞれの寺院で伝えられており、その伝承を持つ寺院の名前が記載されています。
その一つ繁多寺(はんたじ)は正式名称を東山(ひがしやま)瑠璃光院(るりこういん)繁多寺と言います。瑠璃光の名前が示すように本尊は薬師如来です。住所は松山市畑寺町(はたでらまち)32。真言宗豊山派に属し、四国八十八箇所第五十番札所。ロケーションは松山市を見下ろす淡路ヶ峠(あわじがとう)の中腹にあり、西側や南側への展望が素晴らしく、松山城や瀬戸内海まで俯瞰できます。寺伝によると、天平勝宝年間(749~757)孝謙天皇の勅願により、行基が坐高三尺の薬師如来を彫って安置し、孝謙天皇の勅願所となったといい、光明寺と称したと伝えられています。その際に天皇より祭具としての幡(ばん)を賜ったことが寺号の由来となったという説があります。
ところで奈良時代に創建されたと伝える寺院の多くが、その創設者を行基菩薩としています。菩薩と称されるほどに民衆に慕われ奈良時代を代表する僧侶です。行基が生まれたのは668年で亡くなったのは749年です。当時としてはかなり長生きをしていますが、繁多寺の寺伝にある天平勝宝年間に行基が開いたということになりますと、749年は行基が亡くなった年ですから、亡くなる直前に伊予を訪れたとは到底考えられません。可能性として言えるのは、行基はある種の教団を組織していたようですから、その教団に属する僧侶が行基を名乗ったのではないかということです。
繁多寺は平安時代に入り、弘仁年間(810~824)に空海が留まって修行し、今の山号寺号に改めたとされます。その後一時衰退しますが、伊予国司源頼義や僧▪︎尭蓮らの援助で再興され、弘安2年(1279)には後宇多天皇の勅命を受け、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退の祈祷をしています。一遍上人は青年期に大宰府で修行した帰りに有縁の寺に参詣し、当寺で学問修行したともいわれます。晩年の正応元年(1288)亡父の如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に納めています。
繁多寺は天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺(せんにゅうじ)との関わりが深いです。江戸時代に将軍家の帰依を受けたことで一時は隆盛を極め66坊と末寺100余という大寺となりました。本堂には非公開の薬師如来坐像と両脇仏の日光月光菩薩が安置され、歓喜天堂には4代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天像(絶対秘仏)が祀られています。
繁多寺へのアクセスは、伊予鉄道横河原線久米駅下車1.7kmまたは、伊予鉄バス10番繁多寺口下車0.8kmです。
繁多寺の再興に力を貸した人物として源頼義と尭蓮の名前が伝えられています。私が調べた限りでは河野親経の名前は出てきません。尭蓮については『徒然草』に「悲田院の尭蓮上人(げうれんしょうにん)」として登場していますが、それと同一人物かどうかはわかりません、
繁多寺の次の札所は石手寺です。石手寺は伊佐爾波神社の別当寺だったということですから、それに関連してあらためて書くことにします。