石切神社が伝えるニギハヤヒの伝承(1)

近鉄電車で奈良から大阪に向かうと長い生駒トンネルを抜けたところに石切駅があります。この駅のほぼ真下に石切神社があります。駅から神社に向かう長い参道も一見の価値があります。関西では「石切さん」と親しまれ、でんぼ(吹出物)に霊験があると信じられていて、ガンも吹出物だと言うことで、ガン患者の家族が病気平癒を願ってお百度参りをする姿が見られます。
石切神社は正式には「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」と言い、その象徴として社殿の屋根に剣か刺さっています。所在地は本社が東大阪市東石切町1ー1ー1。上之社(かみのしゃ)は上石切町2ー34ー14。祭神は饒速日尊(ニギハヤヒ)と可美真手命(ウマシマデ)。タカクラジ(アメノカグヤマ)は祀られていませんが、境内社に神武社があります。上之社の石切登美霊社(とみれいしゃ)にはニギハヤヒの妃の三炊屋姫(ミカシキヤヒメ)が祀られています。
ウィキペディアのニギハヤヒの記事の中で石切神社の伝承が記載されています。神武の危機を救った「布都御魂劔(ふつのみたま)」に関して『記紀』とは違う伝承を伝えています。また神武とニギハヤヒとの関係もよく分かりますので、それを要約してご紹介します。
ニギハヤヒはアマテラスから大和に国を創るよう命令を受け、「十種の瑞宝(とくさのみずのたから)」を授かり、ニギハヤヒは船団を組み、自らも「布都御魂劔」と日の御子の証(あかし)である「天羽々矢(アメノハバヤ)」を携え、天磐船(アメノイワフネ)に乗り込み高天原を出航しました。途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命(アメノカグヤマ)に「布都御魂劔」を授け船団の一方を預けました。宇佐から瀬戸内海を渡るとニギハヤヒは河内(宇佐から河内までのルートは神武軍と同じ)、大和に。一方のアメノカグヤマは紀伊に向かいます。(アメノカグヤマは「布都御魂劔」を持って紀伊に来たということになります)。ニギハヤヒ一行の乗った天磐船は鳥見(とみ)の里を見渡す哮ヶ峯(たけるがみね=生駒山)に着くと、ニギハヤヒは辺りを見渡して「虚空(そら))にみつ日本(やまと)の国」〈「空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」〉と賛嘆しました。これが日本の国号の始まりということです。当時の河内と大和の一帯は鳥見の里と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。この地方を治めていたのは鳥見一族で、彼らには稲作や製鉄の技術はないものの、狩りや漁に巧みで、生活用具や住居づくりに優れ、長身の恵まれた体格は戦闘において有利で「長髄(ながすね)の者」と恐れられていました。その頃の鳥見一族の長の長髄彦(ナガスネヒコ)はニギハヤヒの徳の高さに打たれ、ニギハヤヒがもたらした稲作や織物、鉄の道具や武具に文化の高さをみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞってニギハヤヒに従いました。
この時に二人の間を取り持ったのがナガスネヒコの妹の登美夜毘売(トミヤヒメ)。
(これは『古事記』での表記で、『日本書紀』では三炊屋(ミカシキヤ)姫)。そして姫とニギハヤヒの間に宇摩志麻遅命(ウマシマヂ)が生まれます。
ナガスネヒコがニギハヤヒのもたらした技術によりそれまでの縄文時代の生活から弥生時代の生活に移行したということが書かれています。


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