穴穂部皇子の最期その1

 用明天皇2年(587)4月2日に天皇は病気になり仏法を信奉したいと望み群臣に諮ります。当然のことながら排仏派の守屋は反対します。それに対して崇仏派の馬子は詔を奉じて天皇の望みに従うべきとして穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させます。守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れて来たことに大いに怒り皇子を睨みつけました。その後、守屋は群臣から命を狙われていると知らされ、別業の阿都(河内国)に退去します。   
 用明天皇は1週間後の4月9日に崩御します。天皇が仏法にすがりたいと詔した時にはすでに重篤な状況にあったということでしょうね。
 用明天皇の崩御後に誰を天皇にするかが決まらず、一時的に空位になりました。そのため5月に守屋は穴穂部皇子を天皇にしようとして密使を皇子に送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るように願いました。これに対して6月7日に、馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛らに速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するように命じます。その日の夜半、佐伯連丹経手らは穴穂部皇子の宮を包囲しました。皇子は楼を登ってきた衛士に肩を斬られると、楼から落ちて隣家へ走って逃れますが、灯をかかげた衛士らによって探し出され殺害されました。そして穴穂部皇子と仲のよかった宅部皇子も共に殺害されます。 
 さて、ここに書かれていることを補足説明します。
 豊国(とよくに)は、豊国法師とも呼ばれます。「豊国」は固有名詞ではなく、九州北部にあった豊の国出身の人物というように考えられていますが、加藤咄堂(かとうとつどう、1870~1949)は英彦山の開山者の忍辱(にんにく、藤原恒雄)としています。加藤咄堂は、本名熊一郎。仏教学者、作家。雄弁学の大成者とされます。僧籍は持たなかったそうです。
 穴穂部皇子と宅部皇子の殺害について、馬子は佐伯丹経手(さえきのにふて)、土師磐村(はじのいわむら)、的臣真噛(いくはのおみみまくい)に次のように命じます。「汝等(いましら)、兵(いくさ)を厳(よそ)ひて速(すみやか)に往(ゆ)きて、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのみこ)とを誅殺(ころ)せ」。この3人は軍人ということになります。佐伯氏については既に書いています。土師氏(はじうじ)は、天穂日命(アメノホヒ、アマテラスとスサノオの誓約で誕生した五男三女神の一神)の後裔とされる野見宿禰が殉死の代用品である埴輪を発明し、垂仁天皇から「土師職(はじのつかさ)」と土師臣の姓を賜ったことに始まるとされます。古墳時代に、古墳の築造や葬送儀礼に関わった氏族です。菅原道真は土師氏の後裔です。土師磐村の息子の猪手(いて)は、推古天皇11年(603)に征新羅大将軍であった来目皇子(くめのみこ、用明天皇の皇子で聖徳太子の同母弟)の葬儀を周防国で行っています。彼は周防国佐波(さば、佐波郡は現在の山口県防府市にあたり、周防の国府が置かれ、また総社の佐波神社があります)に皇子の殯宮を造ったことから、裟婆連姓を名乗るようになります。皇極天皇2年(645)天皇の生母の吉備姫王(きびひめのおおきみ)が亡くなった時、天皇の詔によって吉備姫王の葬儀の執行を担当しています。

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