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7月15日「フィギュア開封乱文」

2021年7月15日の日記。
sixtonesの新曲「フィギュア」解禁されましたねめっちゃ良.........


飲んでたカフェラテ口腔内から垂れ流すくらいには呆然としてしまった。ジャパニーズマーライオンへと擬態しながら震えたなんだこの神曲は....

こちらのフィギュアは、くじらさんというボーカロイドやyamaさんを始めとするアーティストに楽曲提供をされている方が作詞・作曲を行っている。ボカロ黎明期の深海シティアンダーグラウンドを潜ってきた身からすれば今回のコラボあばばばばと芥川状態である。擬音だけね。




全く曲には関係ない変な話をしていいだろうか。

中学時代、まだまだオタクは社会的にも勿論学内においても圧倒的な弱者で、オタクと公言することは自ら社会的な死を志願するような行動だと認識していた。2次元のイラストで描かれたボカロももれなくその対象に含まれており、ボカロ好きな人はオタクと安直にラベリングされた。
「それでも私はボカロが好きだから」と己を貫いていたら何か変わったのかもしれない。しかしクラス中に蔓延したオタクってキモいよねの空気が山頂で吸う薄い空気のように肺と喉を圧迫し続けていたし、そんな酸素の薄い苦しい場所でボカロを好きだと叫べる気力も体力も私は持ち合わせていなかったのである。
オタクのラベルを貼られ周縁化されるのが本当に怖くて、興味が極小粒納豆の半粒ほどしかないファッション誌を読み漁り必死に話を合わせる毎日。その比重が増えれば増える程中身はドロドロ腐り果て発酵した結果糸を引くくらい粘っこくニコニコ動画に張り付きボカロ曲を聴き漁った。インターネットは弱者にも、好きなものすら好きと言えない不甲斐ない自分にも平等に音楽を届けてくれて、ミクちゃんを始めとするボカロファミリーの歌声はきつく結ばれた心をゆっくりと解いてくれた。


大学生になると、いい意味で他人に興味がなくて、自分の好きなものに対して真っ直ぐに好きと言える人が沢山いて驚いた。自分がボカロが好きだった、この動画が好きだと話しても馬鹿にしない。むしろ話が終わると相手も自分の好きなものの愛を熱く語る。山頂の様に寒くて酸素が薄い感覚は既に無く、その場の熱気を肌で感じる度無事下山できたのだなとホッとした。

誰かがエッセイで、「自分が好きなものと世間の流行には距離がある。だからこそ、いつかふとした瞬間に重なる時が来るから、流されず好きなものは好きなまでいればいい」と仰っていた。自分自身昨今のボカロPムーブメントを見ていて、この言葉に大いに賛同した。と同時に好きなものに蓋をした人生を振り返り、ゾンビみたいに生きていたなと気がついた。好きなものをひた隠し、なんとなくなその場・時代の流行と合流し終いには流される。何の煌めきも胸の高鳴りも無かった。心臓も思考も一時停止していたかのような、靄かかった灰色の記憶だけが海馬を漂う。


好きから目を背け、安易に流行に迎合し自分を偽る人生に果たして意味はあるのか。人生観はそれぞれだが私は意味がないと思う。自分に不誠実な人生なんて死んでいるも同然だ。ゾンビだ。どうせ人はいつか死に地に還る。どうせ消えてしまったって何も残りはしないのなら、生きている内は愛想笑いで死んでたまるかと今は思う。
死に場所を求めゾンビ達が徘徊する荒廃した街で生き延びるため、好きという名の光をくたくたに浴びて、体内時計のネジを今日も巻き直し、生者として生きていこう。

あれから数年。私はすっかりsixtonesにハマってしまい、あいも変わらずボカロが好きだ。好きを詰めた鍋に圧力をかけ蓋をしていた頃もあったが、好きがぺそぺそな蓋なんぞに屈する訳もなく、現在噴きこぼれている最中だ。好きを注いだ鍋はあれから沢山増えて、噴きこぼれた2つの鍋の中身が偶然混ざり合ったものを味見したらめちゃくちゃ美味しかった。この味はもっと強い蓋をしたり、中身を捨ててしまっていれば出会えなかった。今回はそれだけの話である。


とにかく、最高に好きなものが重なったフィギュアを開封してしっぽり泣きました。


乱文ですね。論理的な話にならず申し訳ない。けど話は論理的でなければならないなんて法律もないんで大丈夫でしょう。







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