6月24日「シュプレヒコールの雨」
2021年6月24日の日記。
タイトルは関係ないな。3本目なんで最近の疑問を。
世に放たれた自分の一部ってなんであんなに愛おしいんだろう。例えば自分の抜けた髪の毛は素手で拾えるが、持ち主のわからない髪の毛は拾い上げるのに躊躇してしまう。汚い話、鼻をかんだティッシュも、自分のものは鷲掴みにしてゴミ箱にホールインワンできるのに、他人のものは気後れしてしまう。
「無償の愛」という言葉がある。よく聞くのは母から子への理由と底のない愛情を前にした時だろうか。言い方は悪いが、子どもは母の身体から出た一部である。だからこその「無償の愛」なのかもしれない。「愛」という免罪符を掲げ、支配・虐待を行う毒親も存在するが。
一度身体から離れた己の一部はもう自分のものではない。抜け落ちた髪の毛を頭皮に戻さずゴミ箱に放つように、子どももへその緒が切れた瞬間から、一部ではなく一人として社会に届ける必要がある。子どもの人生は親のものではなく、子ども自身のものだ。
全然関係ないけど「ネット廃人シュプレヒコール」って曲懐かしいね。
やっっっと日記追いついた。打倒怠慢。取ろう睡眠。寝れる。おやすみなさい!