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ラトゥール『社会的なものを組み直す』をわかるまで読む


第7回

actionについての議論を続けたい。我々つまりはactoractionをしているとき、それは一人で行っているわけではなく、他のactorとのインタラクションをしているのだ、というのがラトゥールの主張だが、これはどういうことだろうか。ここでラトゥールは階級に関する議論を巧みに持ち出す。ひとつはブルデューのいう「ハビタス」である。これはある集団は特定の文化資本をもっており、そのなか(つまりはハビタスのなか)で育たないとその文化資本は継承できない、とする考えである。つまりクラッシック音楽を楽しむ教養はそれを文化資本とするハビタスで育たないと身につかないので、そうした文化資本のない下層階級に生まれた若者は勉強して社会階級を上昇するというアクションをしようとしても、文化資本がないので、上層階級にはなれない、とする考え方だ。あるいは誰かを好きになったとする。これもアクションだ。その誰かは結婚パターンの統計的調査からすると、身長、学歴、収入、住んでいる街などがほぼ統計的に自分と同じようなひとであることが多い。こうしたactionを引き起こしているもの(エージェンシー agency)はいったいなんなのか?これが問題となる。

社会的なるものの社会学者であれば、エージェンシーとして社会的なるもの、つまり文化、構造、ハビタスなどをあげるだろう。だが、そのような短絡的な説明方法をやめるべきだ、とラトゥールは言う。アクションはアクションとしてそのままにしておけ、なにか社会的なことからアクションがおこされた、と考えるのをやめよう、というわけだ。このラトゥールの、つまりアクターネットワーク理論のアプローチをとると、ほとんどの社会学的説明のみならず、マーケティングのセグメントの考えなども成立しなくなる。我々がアクションするのは「社会的なるもの」によってではないとする。では我々はなにによってアクションするのか?

ラトゥールはそれは他のアクターとの関係性によってであるとする。ただし、「アクター」の定義が問題だ。アクターは人間だけではないと最初のANT理解のアプローチとして説明される。説明の例として舞台での演劇が用いられる。アクターネットワークにおけるアクターは舞台の言葉から来ている。我々がアクターとして舞台の上で演技をしているとき、アクター(役者)一人で演技をしているわけではない。舞台で演技がはじめるとアクターは複雑な筋のもつれ(imbroglio)に取り込まれ   理解不可(unfathormable)な状態になる。社会学者のアービン・ゴフマン『行為と演技』で述べたように、舞台の上でアクションしているアクターにとって、確かなことはなにもなくなるのだ。アクションをうみだしているのは、観客なのか、照明なのか、脚本家なのか、どれなのか?つまり舞台の上のアクションはアクターネットワークの産物であり、アクターは自分のアクションを何が生み出しているのかわからない状態で演技をつまりパフォーマンスを行っている。

このようなときに、社会学者はアクターのアクションについて、それを動かす社会的なるものを設定するのではなく、関係性の社会学者としてアクションは痕跡に過ぎない、と見るべきなのだ。集団がつねに組み直されているとき、アクターのアクションもまた多様に揺れ動いていく。アクターの多様な行動、とりまとめようのないインタビュー、複雑な表現などすべてが貴重な痕跡の記録であり、それを無視してはいけないのだ。調査をしたときに、インフォーマントの言葉そのものに調査者が感動する事が大事なのだ。つまり、はっとするような表現に「社会的な説明」を加えてはいけないのである。現象学的社会学者であるガーフィンケルが言っているように、アクターがいっていることに社会的説明を加えてはいけないのだ。

ここでラトゥールは政治学的な目的をもつ社会学の言い方を批判する。インフォーマントのものの言い方が正しい社会のあり方から逸脱しているのでそれをただして政治的に正しい社会にする、というのが政治的な社会学者の言い方である。また批判的社会学者にたいしてもラトゥールは異を唱える。批判的社会学者は観察からえられるデータを無視して、すでに想定した社会的な力で人々の行動を説明する。さらにそれに反発する反応がインフォーマントから出てきたときには、それは説明が正しくて耐えがたいからだとする。この段階で批判的社会学は経験的であることをやめてしまうのである。アクションを生み出すエージェンシーにかんしての経験的な議論がなされなくなる。ではどうするのか?

それはアクターの声に耳を傾けることである。アクターをうごかすエージェンシーとはなにか?これは哲学的に非常に大きな問題であって、社会的なるものの社会学者が述べているような簡単な話ではない。ヘーゲル、アリストテレス、ニーチェ、デューイ、ホワイトヘッドなどの哲学者がエージェンシーとは何かについて深い哲学的な思弁を展開している。社会学者がこうした哲学者の考察を理解すること無しに、フィールドワークにおいて出会った、
「主婦、従業員、巡礼者、犯罪者、ソプラノ歌手、CEO」の話を聞くことができるのか?哲学のこうしたインフラから社会調査を切り離すことはできない。アージェンシーの研究はそれほど慎重に行わなくてはいけないのである。次回はエージンシーの詳細について議論が展開する。

まとめ actor action agencyは哲学において大問題なのであるが、社会的なるものの社会学者は、特定のagencyが固有のactionをうみ、それを我々actorが演じていると単純化してみている。だがこの三者の関係は複雑で動いており、この複雑な動きの痕跡しか我々は見ることはできない。


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