ラトゥール『社会的なものを組み直す』をわかるまで読む
第13回
いままでANT理論の理解の障害について3つのことをみてきた。それは
1) groups are made グループは社会をあらわしているものではなくて、いつもactor同士が組み合わされて作られている。
2) agencies are explored actor達を動かしている力agencyがどのようなものであるのかは、調べてみないとわからない。複数の対立するagencyが共同することがある。
3) objects play a role actorにはモノもふくまれていて、人はモノと関係を結びながら世界を作っている。社会的次元と技術的次元の区別をすてて、活動の現場を見て記録することが大切である。
以上の3つである。社会は固形物として存在しているのではなくて流動的に動いていて、それを痕跡としてしかそれを我々は認識できない。実体としての社会の存在を信じる社会学者でもここまでは理解できるだろう。だが、ANT理論はこの先をいくのだ。このことを理解することはこれから展開するANT理論理解の第4の障害の理解無しにはなかなか難しい。
この難しさは、ANT理論がそもそも科学研究として始まったことによる。科学研究(science studies)とはギリシャ語のepistemologyの翻訳であり、この分野の研究をして言える研究者達は、科学の社会学をしていたつもりだったのだが、研究が進むにつれて、社会socioのみならず学logyへの疑問も持ち始めたのである。この疑問をせいりすることがANT理解の第4の障害を越えることとなる。
Constructivism vs. social constructivism
ANT理論は「科学的事実は社会的な構築物である」というまったく間違った議論からはじまった学問であるという。社会的という言葉を実態としてみるか、様様なものが集合していくプロセスとしてみるか、という立場の違いを不用意にsocialという言葉を使ったことで混乱させてしまったが、初めは科学の問題を事実fact、科学 scinece, 構成 construction,そして社会(social)という側面から見てみようというつもりだったのだとラトゥールは言う。「なかなかいいアプローチではないか!」というわけだ。
ところで、英語でのconstructionは工事現場という意味がある。実際工事現場を訪ねてみるとモノが参与子として人と共同して何かを生み出している状況を観察することができる。それは建築科や建築研究者によって記述されてきたことだ。ラトゥールは次の2冊をあげている。1冊目はTracy KidderのHouse(1985)である。
2冊目はRem KoolhasとBruce Mau のSmall, Medium, Large, Extra-Large(1995)である。
両方とも僕の古い愛読書である。僕自身もモノが作られる現場の研究書を出している。『アメリカンホームの文化史』(1988)だ。
この本を出版したのは30年以上まえだが、当時は日本女子大学で教えていた。あるとき住居学科のパーティで、学科長だった小川信子先生が僕のことをある建築史家に紹介した。アメリカの住宅の研究をみたいなことだったが、その建築史の研究者は「ああ、住宅の社会学ですか」と答えたら、小川先生が「違うのよ、この方は実際の建物を調べて計測をしたりして研究しているの」と説明したことをよく覚えている。まさにそうで、モノと人がであう現場の民族誌がこの本なのだ。
閑話休題。こうした現場は建築だとわかりやすいが、科学の実験室の「現場」でも同じだとラトゥールは述べる。映画であれ、建築であれ、料理であれ、ファッションであれ、ものがつくられている(making)現場では材料がくみあわされて一つの全体となっていく様子が観察できるのが現場であり、うまくいくかいかないか、失敗におわってしまうか、の緊張があるのがものを作り出す現場なのだ。
さて、建設の現場がこれだけ魅力的であるなら、高層ビルや自動車などが機能的にも耐久力においても、デザインにおいても魅力的に構成されるのでり、我々はこうした構築物に次のような質問を投げかけている。どのようにデザインされているのか、どれほどしっかりと作られているのか、耐用年数はどのくらいなのか、素材の値段はどのくらいなのか、こうした質問の答えが構築物の善し悪しに直接結びつくと思っているからだ。ANT研究者は研究をはじめたころ、おなじような質問を実験室という現場になげかけた。
藝術や映画や建築よりも、科学の研究室という現場ではものの加工・組み立てを行って人工的に実験を行って事実の「構築」を行っていた。実験室で使われる「粒子加速器、望遠鏡、国民統計、衛星群、巨大コンピュータ、検体標本」といったものが高層ビルやコンピュータチップ、機関車などを作る現場を構成している道具と同じものだとの確信を持って初期のANTの研究が進められた。摩天楼のかわりに事実が構築された(construction of facts)。またANT研究者は「科学は構築される」というときに「高層ビルは構築される」というときとおなじようなスリルを感じそれを楽しんでいたのである。そこはリスクに満ちたいノベーションの現場であった。人間の活動と非人間(object)の活動が出会うところであり、研究室はハリウッド映画をつくるようにドキドキする現場であった。そこで、実践者practionerである科学者は成功するかしないかわからない risky な制作 productionに関わっているのだ。
このような興奮は長くは続かなかった。constructionの意味が変遷していったのだ。