メタバース世界をコードで思考し、コードで実装するための手引き その3
well-beingと自生的秩序
well-being はあるものではあるが触れることはできない。理屈で説明できるものでもない。だがある程度人生を過ごすと、いや上手に過ごすと感じることができる. アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』と『エウデモス倫理学』という二つの倫理学の書物を残しているて、エウダイモニア(「幸福」、「繁栄」)の議論から始まり、アレテー(「徳」、「優秀」)の本質、人間が最高の状態で生きるために必要な性格的特徴の検討まで、ほぼ同じ内容を議論している。両論とも、賞賛や非難が適切な条件、快楽や友情の本質を考察している。これはアリストテレスの『ニコマコス倫理学』の考え方だが、アリストテレスによれば、幸福とは、生涯を通じて、健康、富、知識、友人など、人間性の完成と人間生活の充実につながるすべての財を獲得することである。ここにはキリスト教的神はない。大体キリスト教以前だし。さて、一般に「well-being ウェルビーイング」という言葉は、通常、健康に関連して使われる。Stanford Encycropedia of Philosphy の説明に従えば、例えば、ある医院が「女性のためのウェルビーイングクリニック」を運営するとう表現がある。この場合はある人の人生がその人にとってどれだけうまくいっているかということを意味する。この言葉はここのところ、認知心理学者が「幸福」という概念と同義で使うようになっている。このようなwell-beingは「生活満足度」とされ、自己報告や日々のアンケートなどの手段で測定されている。自分の人生は自分が満足する程度にうまくいっている、つまり、ある種の快楽主義的な幸福としてwell-beingが使われている。これは行動心理学においても、建て付けは慎重になされているが、同じである。人間は短期の快楽をもとめて非合理的な選択をするとされる。だが、アリストテレス的なwell-beingは快楽主義的というより、関与、関係、意味、達成感などを扱っている。これはエウダイモニアあるいはエウデモス(eudaimonia)倫理学とも呼ばれる。下の写真はイギリスのAnthony Kennyが翻訳したエウデモス倫理学。彼はいまの人工知能のレベルには遙かに及ばないが、簡単な統計学をつかって言葉の分布の分析をしてそれまで偽書といわれていたたエウデモス倫理学をアリストテレスのものだとして、翻訳をして今に蘇らせた。
僕はこの翻訳に大分影響をうけたのだが、最近アリストテレス学はさらに進歩している。新しい英訳が立て続けにでている。このあたりは機会をみて書いてみたいが、今回は省略する。下記は新訳の『エウデモス倫理学』2021年出版である。
アマゾンで次のように紹介されている。
アリストテレスの『エウデミア倫理学』は、『ニコマキア倫理学』と並んでアリストテレスの倫理観を明らかにする偉大なテキストであり、その研究に関心を持つ人にとって不可欠なツールになることは間違いないだろう。ギリシャ語テキストに忠実なだけでなく、アリストテレスの散文のリズムを見事に再現している。また、丁寧な序文、豊富な注、テキスト上の問題に対処するための節度あるコメントにより、リーヴの版はアリストテレス研究への驚くべき貢献をしているといえる。
-パブロス・コントス、パトラス大学、ギリシャ
読むのが楽しみだ。
閑話休題
トマスアクイナスはこのwell-being感覚をさらに解釈しながらキリスト教神学として深められたが、ベーコンがこの体系を全てひっくり返す宣言をしてデカルトやガリレオが科学の名前で書き直して今の科学の体系ができる。
神が科学的真実に行き変わっただけに見えるのが現代の神学である。この周りにスピリチャリズムが付着してサタンが蠢いているのがまあ今の世界でwell-beingはここに落ちていき(上がっていき?)、科学をかざすwell-beingの神になった。この考えを殊更否定する気はないが、たとえばこの考えを元に企業としてwell-beingに向かう活動をするというのはあまり意味が無いだろう。科学的well-beingが根拠とした「事実」がでっち上げだと言われている今、 実践してもwell-beingに到達できないwell-being論は 30日でネイティブのように英語が喋れるみたいな書籍と同じで実践でも役に立たないだろう。
ハーバード大学が何十年も同じコーホート(同時期に出生や結婚などの人口学的事象を経験した集団)を追跡調査してまとめた結論はgood life とはコミュニケーションできる友人と積み上げる経験だという。人はどのようにwell-beingにたどり着くのか。何が人間の繁栄と幸福をもたらすのか、あるいは構成するのかは経済学や心理学でも議論されているが、ある個人にとって何がwell-beingであるのかは、その人の能力、才能、状況が深く関わっている不思議なものである。アリストテレスは、徳のある活動は、徳のある人にとって快い、あるいは楽しいものであると述べる。徳の高い活動をしている間、その活動は、無自覚で、楽で、支障のないものとして経験される。徳のある活動は、本質的に楽しく、価値のあるものとして経験される。同時に、複雑な集中力と思考を伴う。高潔な活動は、人が集中し、自分がしていることに注意を払うことを必要とする。徳のある人は、困難に対処し、問題を解決し、課題に対応するために知性を働かせることができる。徳は、個人の繁栄と幸福に寄与する手段であり、美徳は人の人生を変えることができる。人は幸福を求め続けるが、それをどこに求め、達成するためにどう行動すべきかという考えをはっきりとさせるのが徳だからである。知識、友情、正義、創造的な仕事、余暇、喜び、健康、美的鑑賞、名誉、自尊心、道徳的美徳などは、アリストテレスが述べているように、個々の人間の努力との関係においてのみ、またそれゆえにのみ、現実性と価値を帯びるものである。しかし、徳のある行動をとっても、すぐさまには自分の最も重要な目標や価値を達成できないことはありうる。だが、関係性が大事である。パットナムが『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』で行ったソシャールキャピタル(信頼や規範、ネットワークなど、社会や地域コミュニティにおける人々の相互関係や結びつきを「資本」として考えること)の研究では出会って顔を見て挨拶するくらいの社会資本関係が良き社会を保つという。ダイナミックな関係性がある時間維持できるとその痕跡が良き暮らしの領域となる。
下記の写真は日本語訳のものだが、次にある原著の写真がよく状況をあらわしている。なんてことのないコミュニティにあるボーリング場で顔見知り同士挨拶をしてただボーリングをする仲間が危機に対応する決断をする。内容は読んでのお楽しみだが、こうした自生的秩序が失われている流れをおった本である。
さて、このように説明される社会では徳のある人が他者と社会的な関係性をもってコミュニケーションすることで安定した社会が生まれてくる。この状態は次にように考えると良い。自分の母語を喋っている時我々は文法を意識していない。これを言語感覚と呼ぼうとハイエクはいう。これにならって社会感覚を考えるなら普通に社会関係を営んでいる状態を社会関係と呼ぶ。 これが関係性の痕跡がコモンズで有り活動する個人が持っているこの感覚がノモスなのだ。言語学ではここに注目することをパフォーマティブなアプローチをとる、という。オースティンという言語学者が提案した。社会学では演劇 パフオーマンス的アプローチと言ってゴッフマンという社会学者が提案した。
この状態が保たれている社会をハイエクは自生的秩序があるという。昔から組織論では経験的に言われていたが最近ではダンバー数の理論としてモデル化されている。5人を最小単位としてそれが5つで25それが5つで125人 これを少しこえるくらいまでが自生的秩序が保てる規模だとする。ノモスが生きている単位だ。これを超えると別の原理が必要になる それがハイエクのいうテシスである。
自生的秩序はコミュニティのメンバー同士が社会関係を実践して、徳を積み、コミュニティのメンバーがそれぞれwell-beingに感じるときに生まれてくる、と考えるのである。この状態がノモスがある集団とハイエクは説明する。
ハイエクはノモスは触れることができず感じるだけとした。法治国家はハイエクの思考の基本だがここではテシスという法律がありこれは普通の法律だ。法治国家とは裁判官がノモスに照らし合わせてテシスを使って判断をする。これを判例と言って英米法は判例の積み重ねで社会を運営していく。判例は新しく作っても良い。ノモスに照らしてテシスを使って判断をして判例を書く。これをリーガルマインドという。言語感覚の表現を踏襲するなら法律感覚だ。これを丁寧に行なっていくうちに自生的秩序が生まれるとした。
ところで、「囚人のジレンマ」という考え方がある。論理学者が無邪気に論理学の可能性で紹介しているが僕は大嫌いである。悪魔が人間の形で降臨し原爆開発に賛同した天才フォンノイマンが発見しこの考えをもとにゲームの理論を提案した。嘘をついたり相手のことを構わず行動した方が生き残るのに都合がいいというもので、ハイエクの考えを真っ向から否定する悪魔の論理だ。この考えを使って研究領域に公共選択論( public choice theory)というものがある。これは民主制や官僚制の下における政治過程を、ミクロ経済学的なアプローチで解く学問である。公共選択論では政治家や官僚を、自分の利益のために戦略的に行動するプレーヤーと捉え、彼らの社会・政治システム下での戦略的依存関係を分析する。この領域でよく知られている学者にジェームズ・ブキャナンがいる。彼は非協力ゲーム理論を分析手法として取り入れ、多くの学術的成果を生み出した。ブキャナンについてはいずれ論じたいが、ブキャナンは囚人のパラドックスとゲーム理論の考えを使ってハイエクの言っている自生的秩序は成り立たずむしろ自生的無秩序の方が普通ではないのかと主張した。
確かにそうである。だがこの問題を考えるには別の切り口がある。ハイエクの思想の源流にはヒュームがいる。自生的秩序を代議士制が生み出せることを懐疑したヒュームはその動きを補完するものとして、落選した候補者で作る議会のようなものを提案した。こうした仕組みと組み合わせて立法を行い公正な公共を作ることを提案したのだ。裁判官なのか選挙落選者による立法なのかあるいはランダムに市民から人を選び立法を行うか。いずれにしても、選挙による意思決定とヒューム的方法で作った集団の決定と、選挙による代議士の決定を組み合わせて、ノモスと参照するテシスを作ることで、自発的無秩序をさけて、自発的秩序を作りだす、という方向には可能性があるように思う。
この流れを見るとDAOで投票で意見を決めて自ら自制的不秩序を生み出して意気揚々とフォークしているのが間抜けなことだとわかるだろう。
DAOによるガバナンス
一般的概念としてのDAOと投資マネーを集めたtheDAOとコードによる自動投票型意思決定のメカニズムの仕組みをみてみると、いままで説明してきたノモスとテシスが生み出す自生的秩序とは大分違うガバナンスの様相を呈している。ブロックチェーンは技術であるので、それが自生的秩序を生むか不秩序を産むかはプログラムする人間の能力によるのではないだろうか。現状のDAOを巡る議論は、ノモスが保たれる幸福な公共性に役立つブロックチェーンアプリケーションに向かっているようには思えない。何かが大きく欠けている。DAOやweb 3の説明をする人の口調や表情にもそれは感じる。テシスのコードによる自動化とノモスとの人間の対話そしてそれを踏まえたリーガルマインド 新しいコードを書く事が出来るDAOマインドを持った「裁判官」=コード作成者の育成が必要なのではないだろうか。
現状のDAOによってwell-beingは来ない
現状のDAOは政治哲学的にあまりこのましくないポジションをとっており、well-beingを現状のDAOで実現することは無理じゃないか?というエッセイがあったので、かいつまんで紹介しておく。ようするにブロックチェーンの使い方がDAOは稚拙だ、ということである。もとにしたエッセイは下記である。
The ‘Blockchain Trilemma’ That’s Holding Back Crypto
Analysis by Sidhartha Shukla | Bloomberg
September 7, 2022
暗号を阻む「ブロックチェーントリレンマ
分析:シダルタ・シュクラ|
ブルームバーグ 2022年9月7日 。
https://www.bloomberg.com/asia
である。
要旨:
成功するイノベーションのほとんどは、人々が欲しがるものを作り、売り上げが伸び、規模の経済によって生産コストが下がり、さらに需要を喚起する。これがイノベーションの定番だが、暗号の場合は、それほど単純ではない。ビットコインやイーサといったトークンの取引量が増えれば増えるほど、各取引の記録とセキュリティにかかる時間は長くなり、コストも高くなる。つまり、規模の経済がなりたたなくなる。この問題を解決するためにさまざまな取り組みが行われているが、いずれも悪質な行為に対してシステムをより脆弱にするか、暗号の魅力の鍵である分散型モデルを弱体化させるかのどちらかである。これを暗号技術を採用する「ブロックチェーントリレンマ」と呼ぶ。これはブロックチェーンアプリケーションにおいて最も厄介なである。
1. DAOの何が問題なのか?
DAOはパブリック・ブロックチェーンであり、暗号技術のかたまりである。デジタルで書かれた分散台帳には、口座残高、契約コード、その他のデータが、複雑なデジタルキーを用いて記録されている。これらの記録は公開されているが、勝手に削除、変更、コピーすることができない。この原則(技術)が、分散した協力者グループが仲介者を必要とせずにブロックチェーン上で共同で作業や取引をすることを可能にする。この行為がお互いの、つまりブロックチェーンアプリケーション利用者間の「信頼」を生み出す。この信頼は、ネットワーク上の複数のコンピュータで情報を複製し、検証することでさらぶ強化される。しかしながら、この仕組みがあるために、多くのオリジナルのブロックチェーンは、ネットワーク内の1台のコンピューターが処理できる以上のトランザクションを処理することができない。そのため、現状ではブロックチェーンが暗号市場の動きが激しいときに大量の作業量を生み出し、ユーザーに遅延と法外な処理コストを発生させる可能性がある。9月の時点で、ビットコインは1秒間に約7件を超える取引を処理できず、2番目に人気のある暗号ネットワークであるイーサリアムは1秒間に約15件の処理にとどまり、従来の電子取引所のスピードと比べると比較にならない。
2. なぜこれがトリレンマなのか?
この現象をシュクラ氏はトリレンマと呼ぶ。ジレンマが2項目間での選択の困難であれば、トリレンマは三択の選択の困難さを意味していて、ブロックチェーンを一定以上拡大すると、その基本的な特徴のうち、第三者や政府から独立して機能するための「透明性」とユーザーの「信頼」を与える分散型構造と、「セキュリティ」(ハッカーからデータを守る)の2つが必然的に損なわれるからだ。つまり、「スケーラビリティ」、「分散化」、「セキュリティ」の3つを兼ね備えることはできない。
3. こうなることを予想していた人はいただろうか?
コンピュータ科学者のハル・フィニーは、ビットコインの創始者であるサトシ・ナカモトから最初の取引を受け取り、ブロックチェーンの本来の設計ではそれ自体で拡張できないことに早くから着目していた。彼は、メインのブロックチェーンの上に、よりシンプルで効率的なセカンダリシステムを追加することを提案した。「ビットコイン自体は、世界中のすべての金融取引をすべての人に伝え、ブロックチェーンに含めるような拡張性はありません」と、フィニー氏は2010年のフォーラムに書いた。Ethereumの共同創設者であるVitalik Buterinは、2017年に "Blockchain trilemma "という言葉を作り、"スケーラビリティ "を実現するために必要なトレードオフを明らかにした。
4. 解決策はあるのか?
ブロックチェーンの性能を向上させるためのイノベーションはいくつかあるが、よく見ると、どれもスケーラビリティのために分散化やセキュリティを水増ししている。ここでは、そのいくつかのアプローチを紹介する。
(1)フォーク:
より大きなブロック:ブロックチェーンは、トランザクションが検証されネットワークに追加される前に、より大きなパケットに束ねられるように変更され、そのパフォーマンスが改善される。これは、"フォーク "として知られるプロセスで、元のブロックチェーンから新しいブロックチェーンを分割することで実現できる。ビットコインキャッシュは、これらの分派の中で最も顕著なものの一つである。
(2) 新しいレイヤー
既存のブロックチェーンの上に構築され、取引を独立して管理できるプロトコル -- フィニーが提案したものに近い。いわゆる「レイヤー2」プロトコルの例として、イーサリアムのポリゴンやビットコインのライトニング・ネットワークがある。
(3)シャーディング
データの塊をより小さなパーツに分割し、計算とストレージの負荷をネットワーク全体に分散させる。1つのシャード内の情報を共有することも可能で、ネットワークを比較的分散化し、安全性を保つのに役立てる。
5. トリレンマがもたらす影響とは?
暗号が一部のマニアによって利用されていたニッチな技術であったころは問題なかった。伝統的な金融やその他の主流産業が、交換やコラボレーションのための透明で信頼できる環境としてブロックチェーンに目を向けている今、トリレンマとなっているこれらの制限は大きな障害になっている。イーサリアムは定期的な混雑と高い手数料のために、分散型金融アプリケーションの市場シェアを、Binance Smart ChainやSolanaといった、より少ない当事者で取引を発注できるため高速かつ安価に取引できるライバルブロックチェーンに奪われている。データプラットフォームのDefi Llamaによると、2021年の開始から2022年9月までの間に、ロックされた総価値で表されるDeFiにおけるイーサリアムの市場シェアは、96%から58%に低下した。イーサリアムの支持者は、プラットフォームの取引注文方法を変更することで、こうした問題を克服したいと考えている。
実はこの流れはDAOの限界というより、DAOの使い方の問題である。小集団の取引や組織マネージメントの作業の煩雑さがぶーシットジョブを生み出す一つであり、それを規定しているのはハイエクのテシスである。こここそがブロックチェーンアプリケーションの活躍する領域である。この領域がどの程度の規模であるのかはコンピュータの能力と計算内容しだいであるが、ここを任せるシステムの働き場所は沢山あるだろう。この状況に置ける問題は二つで、
1)処理する内容がかわり新しいコードを書く必要が出来たとき
このときどのようなコードを作るのか。ここに資本(トークン)の量によって重み付けをつける「投票」という概念を持ちこんだやつの知性にあきれるが、まあlibertarianismの連中ならやりかねない。いまのweb3とDAOを説明している人のほとんどが日米問わずこれね。このコードはテシスなので、どのように新しいコードを書くか、つまり判例を作るかは、リーガルマインドをもった裁判官ならぬプログラマーが必要。伝統的公共精神(ノモス)を理解して、プログラムをかける人である。あるいはプログラマーをマネージメント出来る人である。
2)ここがすごく大事で、コードの設計できる範囲を大きくしない。大きなコードのシステムがかけるというのは人間の思い上がりで、ハイエクはこれをconstructionismと呼んだ。ハイエクは共産主義反対の右翼と思われているが、基本的に人間の能力を超えるシステムが人間を不幸にするとして共産主義を批判したのであって同時代的に登場した巨大産業も同じく強く批判していた。資本の再分配を計画するケインズも批判した。では、どのくらいが人間の能力を超えない大きさなのか。福澤諭吉はこれを江戸時代の藩の広さとした。封建主義は親の敵で、天は人のうえに人を作らないとしたが、その福澤が適切な社会の大きさ、公共性が維持できる規模として江戸時代の藩を評価したことは大事である。実際この経済圏は大正時代まで維持されていたと、大学の学部四年生の農村社会学の授業でならったことがある。で、藩の大きさっていえば、それなりの規模がある。この範囲で自然と共生して子供を育て、社会の公共性をマネージメントしていく。結構な規模だ。この範囲で閉じる経済圏を作り、そこでDAOを回す。僕の考えはこのDAOがコントロールできる範囲がコモンズの一番大きなサイズで、これをこえてはいけない。で、大きくなるときはコモンズとコモンズの交換の制度をつくるときになる。これをどう作っていくのか?これは実務家としてEUを構想したコジェーブの話でもあり、北欧の経済を考えたミュルダールの話でもある。
次はもう少し深く日本の自治体の問題を少し考えてみたい。
イノベーションとしてのメタバース
web3とメタバースは違う技術だとエンジニアリングの専門家はいう。それはそれで正しいが、違う技術を寄せ集めて一つにすることでイノベーションは起こる。社会基盤のレベルまでそれが広がると破壊的イノベーションである。今のメタバースはまさにそれで言ってみれば飛行機の登場の時のような無茶な技術の組み合わせが起こっている。アメリカのVCはこの潮流で技術や別の技術を統合するアイデアと実装に投資をしていて目利きでありシステム的に可能性のある会社を見つけ指導してある程度に育つと投資をする そな流れに入って投資を受けることになり一気に開発に入るという。すごいな。昔のセコイヤとかもすごかったけどどちらかというと投資家。こちらはもうグローバルにネットワークされたr&dのスーパー研究所だ。NTT研究所もこうなってほしかった。wellーbeingを可能にするイノベーションはこうした技術にさらに複数の技術が加わって可能になる。
メタバースは複数の技術を統合するシュンペーター流のイノベーションで実現すると考えている。つまり新結合である。単独の技術評価しかできないvcとか事業のリスクを取れない日本型vcはイノベーションの要素技術か完成したプロダクトの市場展開にしか投資できない。このような状況で、メタバースプロジェクトをローンチするには人が見て羨ましいものを作らなくてはいけない。小さくても全体が分かり要素技術が分断されずに統合されていることが大事だ。ああここにいるとweli-beingを感じるよねという場所を設計して実装してオペレーションをする 自生的秩序が生まれるBallの定義するメタバースを作る。いくつものレイヤーを統合する これはブロックチェーンを基礎としたアプリケーション開発が大切な要素となる この意識を持ってさまざまな問題に取り組むことがwellーbeing世界の構築には大切なのである。ノモスとテシスの動的相互作用が起こる。ここがスタート地点である。
メタバースの規模
いまサーリンズがとなえて、グレーバーが体系化した採集狩猟民の社会をレファレンスに思考を進めているが、といって部族社会みたいなところに戻る気はさらさら無いし、農耕社会に戻る気もない。大切なことは人々が豊かにかつ心が落ち着いて暮らすことが出来る幸せなwell-being社会の構築であり、それはエンジニアリングつまり設計と計画では到達できない。well-being社会は人々と道具と環境の絶え間なき対話のなかでうまれてくる痕跡としてあらわれてくる。社会を計画通りに改造したり設計してはいけないのである。
デジタル技術をつかった新しい田園都市構想は、絶え間なきコミュニケーションとその痕跡が自生的秩序をもつ社会になるようにしなくてはいけない。スーパーなシステムでの計画されたやり取りは想像を絶するカタストロフィーを生み出す。計画数値目標評価などで自生的に秩序をもって豊かな社会を生み出すことは出来ない。ゼネコンの計画のデジタル化された部品をつなぎ合わせた「メタバース」は無機で死の匂いのする空間である。そんななかでアバターで移動しても何もうまれない。
『あつまれ動物の森』は英語でAnimal Crossingという。Citizen CrossingあるいはPeople Crossing 集まれ村人みたいな感覚でデジタル都市をつくらないと何も生まれない。今日もまだ莫大なお金がゼネコンのコンピュータの中の部品をつなげた死のメタバースを作っているかと思うと、ぞっとする。やめた方が良い。KPIと合理的計画の方法しか知らないコンサルに生活世界を作らせてはだめだ。下記のイメージはAnimal Crossingである。
ハイエク理論のアップデートが必要
ハイエク理論が新自由主義と違うというのは結構明確なのだが、新自由主義に影響をあたえていなかったというと、そうではない。社会的正義を目的とした医療教育を含む福祉プログラムの廃止の考えは新自由主義の最大の問題なのだが、この考えにハイエクはかなり影響を与えている。1990年代の金融の自由化はサブプライムローンという劣悪な証券化商品によって引き起こされた。日本の事を考えても、プラザ合意以降円高基調が続き、原材料を輸入して国内で組み立て、海外市場に輸出するという日本の高度成長を生み出した方法が通じなくなり、製造ネットワークはグローバル化して、サプライチェーンは複数の国や地域を巻き込んで展開していた。ここにもハイエクの思想が反映している。だが、リーマンショックはこのようなグローバル展開が不安定なものであることを示した。
19世紀の資本主義のグローバル化が階級対立と帝国主義を生み出した。現在のグローバル経済の状況で、ルールの自由化がさらなる経済成長を生み出すにはどうすればいいのか?実はここから先が正念場なのである。我々が生活をするときに考える政治的経済的社会的な制度、そしてそれを成り立たせる徴税、通貨、軍隊や官僚、財政や行政、議会や裁判所、市場といった制度は19世紀から時間をかけて成長してきたものである。いま国家が直面している問題は、ケインズ主義の失敗や福祉国家の行き過ぎだけでは無く、ハイエクの言う自由主義的進化のプロセス、自生的秩序をうみだすプロセスの一コマだったのでは、と柴田桂太氏は『ハイエクを読む』第9章「ハイエク、ケインズ、マルクス」249pで述べる。不況時の財政政策や格差是正のための再分配政策は現在の社会が生き延びていくためには必要なのだ。このような政策は現在、ケインズ主義でも社会民主主義でもなく普通の政策となっている。ではこのような仕組みを前提としているいまの時代にどのようにすれば自生的秩序あるwell-being社会がうまれていくのか。
この答えは国家のサイズ、規模にあると僕は見ている。自生的秩序が生まれる「国家」と生まれないサイズの「国家」がある。会社の規模も同じだろう。このサイズを考えて自生的秩序が生まれる規模を考える。ここが非常に大切になっていくと思う。江戸時代の藩のサイズがこの規模になっているのではないか、というのが福澤諭吉の公共思想なのだが、デジタル技術と密接になってつくられる「メタバース」のサイズも自生的秩序が生まれるサイズである必要があると思っている。その単位で連結していくことが大切になるのだ。
さて、メタバースにwell beingな社会を構築するための立ち位置はきまってきた。これをどうやってプロジェクト化して実現にむかうのか?次からは、このあたりをしっかりと考えていきたい。