ラトゥール『社会的なものを組み直す』をわかるまで読む
第1回
初めに
大学で社会学を勉強すると、マックス・ウェーバーやエミール・デュルケムの名前が出てくる。社会には特有の形があり、その形が文化を形作るというのがウェーバーの考え方で、消費活動において禁欲をよしとする価値観をもつ人たちが結果として多額の貯蓄を積み上げて、それが資本主義を生み出す動力となった、という『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(略してプロ倫)という本の名前は聞いたことがあるだろう。あるいはデュルケムはフランスのいくつかの村を調査して、カソリックを信じている人が少なくなればなるほど、その村の自殺率が高まる。それはよるべのない不安に駆られると、神を信じることが自助努力になっているプロテスタントの信者達は不安の重さに耐えられなくなって自殺をする」という仮説を統計的なデータで説明して見せた『自殺論』という本を書いている。これは『プロ倫』よりは知られていないかもしれないが、社会学的思考の古典である。
社会が資本主義の発達によって様々な面で大変動しているなかで、新しい世界を構築する過程にあった18世紀末から19世紀にかけて、新たに登場してきた「社会」がどのような性質をもっているのかを考えたのが社会学の始まりであり、ウェーバーやデュルケムの考えが生まれたとされる。大学に入り社会学を学ぶとゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの変化として習うところだ。テンニセスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト—純粋社会学の基本概念』で習ったね。慶應の社会学入門の授業だ。横山先生が教えていた。懐かしいね。
社会を実態のあるもの、統計的な調査で把握することが出来るものであるという考え方はその後も社会学の中核を占めており、イアン・ハッキングは1990年に出版した『偶然を飼いならす——統計学と第二次科学革命』において、19世紀の地方自治体が犯罪、飲酒、自殺などを調べて統計結果として印刷して発表していたと述べている。日常の世界での顔をつきあわせての付き合いのなかでは意識することの出来ない動きをあきらかにする方法として統計学がつかわれ、それが社会学という学問の確立へとつながっていったのである。たとえば現在でも、東京23区に住む人の特徴をそれぞれの区の人口の特性と平均収入でみて、分析して、これからの街のあり方、商品開発の方法などについて予測をする、という活動が研究者によって普通に行われており、またそのことについての書籍も大量に出版されている。港区民とか江戸川区区民とか、タワーマンション住人とか、公団生活高齢者とかいった集団が実態のある社会的存在として語られ、それに疑問を提示するどころか、こうした分析に基づいて地域開発が行われている。
だが、本当に社会的な実体というものは存在しているのだろうか?ウェーバーやデュルケムが社会を実在としてとらえていることは社会学者のなかで議論されてきた。だが、直感(ウェーバー)とカテゴリー(デュルケム)という否定しがたい思考の道具を使っているこの2人の社会学理論をくつがえすことはなかなか難しかった。この問題に対する批判は20世紀になって現象学的社会学としてようやく始まった。また人類学者の間では民族史的既述の「真実」を巡る議論などが戦わされ、客観的な社会の存在は証明することはできないが、その「社会」と現在我々が生きている状況を踏まえた上での「研究者」によるその社会の解釈の丁寧な既述は、対象とする社会のみならず、その社会を説明・解釈しようとしている我々のことも明らかにしていく、というクリフォード・ギアツの解釈学的民族誌の考え方が普及して、社会ではなくて、人間の行動の詳しい記述の方向に研究は大きく舵を切っていった。記念碑的な研究となる民族誌がいくつも書かれて、これらの民族誌は人間の存在のあり方に関して多くの示唆を我々に与えるようになった。こうした偉大なる現代の民族誌学者であるブルーノ・ラトゥールが2005年に著したのが『社会的なものを組み直す』である。
ラトゥールは数名の研究者仲間とActor-Network-Theoryという考え方を1990年代の半ばから提唱しており、活動をしてきたが、「社会的なるもの」と「社会的な説明」という言葉の定義が社会学で普通に使われている意味と大きく違ったため、混乱を招いていたという。この問題を丁寧に議論する間もなく、Actor-Network-Theory(以下ANT)の考え方は広まってしまった。どこかでしっかりとした学問的な導入をする必要性はずっと感じていたとラトゥールは述べている。
1999年からActor-Network-Theoryについての紹介を様々な大学で行う機会を得て、おおまかなドラフトを作り上げて、ANTの理論的入門書として『社会的なものを組み直す』が書かれたという。日本では2019年にしっかりとした翻訳が出版されて、ANT理論の概要がようやく日本語でアクセス可能になった。
だが、この本はよく出来ている翻訳で、訳者は慶應大学大学院社会学科の先輩のお弟子さんでもあり、信頼ができる仕事になっている。が、日本語で読んでもなかなか難しい。それは二つの意味においてである。一つは社会学のみならず社会科学一般の訓練をうけた人であれば社会的「実体」の存在について疑ったことはないはずである。社会科学はそもそもがそういう学問である。その実体にどのようにそまるか?抽象的な理念を歴史資料で説明するか、実体を構成する特性のいくつかを統計的手法で「実証」的に説明するか、が社会科学の普通のやり方である。だが社会学は違う、というのがラトゥールの主張だ。それは社会的なるものはないのだから、というわけ
だ。
この考え方を前面にだしたのがANTである。この考え方は社会的なるものの実在そのものを真っ正面から否定している。つまり社会学を学んだものであれば、自分が慣れ親しんできたものの見方、考え方を捨ててANTを再学習しなくてはいけない。とくに専門的に社会学などを学んでいなくても、われわれの普通の理性的な思考(データを論理的に整理して自分の主張の妥当性を述べる。これはこのエッセイの第二回のテーマである。)とはあらゆる点で異なった見方をしているのがANT理論だからだ。もう一つの難しさは方法論にある。ひとつは徹底した民族誌記述を行うという作業、もうひとつはプロセスを記録して分析するという実証の方法を活用するツールをつかうことが我々の思考スタイルとして身についていないことにある。ツールの使い方そのものもANT理論の一部であるため、話はさらに難しくなっていく。とはいうのもの、それは我々がすでにできあがっている方法で物事をみているために、新しいやり方になじみがないだけであって、実際に行われている作業が特に難しいというわけではない。考え方や方法になじみがないため戸惑うのである。
ANTでは社会ということばを安定した「社会的実体」を意味するとは考えない。あの人は「社交的だね」という意味でsocialという言葉を使う。すでにできあがってしまった社会に対しての議論をするのであれば実体としての社会を考えても悪いわけではないが、いま我々は21世紀の激動の時代にいきており、昔の(つまりは近代の)社会構造を分解して新しい組織をイノベーションしなくてはいけない時代に生きている。なので、socialとは既存の社会システムを指すのではなく、人間が他の人間と関係性をむすんでいくという意味でANTでは使う。この見方をすると、現在数多くある社会論、地域論だったり階層論だったりする研究においての社会的とは実体論であって、人と人が関係性をもって動いている、という視点がほぼ皆無なことがわかる。人が人と関係性を結びながらある程度の時間をかけて、社会を「組み立てていく (assemblageする)」プロセスの研究こそがほんらいの「社会学」が行うことであり、ANTはそれを目指すのである。つまり社会学とは「生活を共にする人たちについての科学」なのだ、と述べている。
さて、社会的ということばを通常我々が使っているような実体をあらわす意味ではなく使うとはどのようなことなのだろうか?これについて次に考えてみたい。ここにおいて、社会的とはことなるものを統合するということであり、これは、たとえば社会言語学において、言語学が統合できなかかったのこりを統合する「社会」という意味ではない。社会的に統合されたということは、経済学的に、言語学的に、あるいは心理学的に統合されているという状態のことなのだ。
どこが違うのだ?と思うだろう。ここからが難しい。social という言葉の語源にラトゥールは向かっていく。socialという言葉を聞くと、社会科学の研究者は同質のものの集合と考える。だが、異質なものの結合 associationとしてsocialという言葉を使うことが出来る。なぜなら、ラテン語でsocialのことをsociusというがこれは、組み合わせ(association)を追いかけていく、という意味なのだ。つまり、associationそのものではなくて、associationによって生まれてくる結合(connection )の種類を意味するのだ。異質なものが組み合わされて新しいものになっていくプロセスのことをsocialは意味することが出来る。assemblageによって新しいassociationが生まれているプロセスの記述をsocialと言うことが出来るのである。これをreassemblageと呼びたい。
新たにつなぎ合わされたものの背後には社会的実体は存在していない。「社会的説明」とはコネクションの背後に社会の存在があるとして、それを説明しようとするが、そもそもそのような「実体」は存在していないのだ。われわれが社会とおもっているのは、様々な異質な要素が試行錯誤をとおして組み合わさっって行くプロセスの痕跡 traceに過ぎない。こうしたことを研究する分野をラトゥールは 連関の社会学 sociology of associationsと呼ぶ。これをActor-Network Theoryと呼ぶべきなのかもしれないが、この名前が一人歩きして、ラトゥールは使う気がなくなっていたが、ANTと略せば蟻だから、目の前の事しか考えないでただひたすら周りの蟻の行動にあわせて動き回っているわけで、新しい理論にふさわしいのでは、とある人に言われて気に入ってこの言葉を使うことにしたという。
重要なまとめ 1: socialという言葉は社会学では実体を表す言葉として使われる。これをsociology of the social と呼ぶ。ここでは鉱物とか植物という意味で社会が存在するとする。だがANTではsocialとはつながっていくというプロセスを示す言葉としてつかっていく。これをsociology of associationと呼ぶ。
(続く)
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