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メタバース世界をコードで思考し、コードで実装するための手引き その2

第1章 ハイエクの『法の支配』 太子堂正称 より

(本論は大師堂氏の筆になる第1章をもとに再構成している。個別の引用に関しては煩雑かつ量も多くなるので省略している。)

1:ハイエクの「法の支配論」再考

ハイエクの自由主義論は「法の支配」という概念が基本である。法の支配というと法律で行動が規定されていて、そこから逸脱すると警察に逮捕される、みたいな国家を想像するかもしれない。権力を維持するために個人の自由を取り締まるような国家である。これは高校生の社会科でならう「警察国家」であって、ハイエクのいう「法の支配」とは異なる。リベラリズムは、この連載でもいずれ論じようと思っているリバタリアニズムもふくめて「善に対する正の優越」という考えを持っている。これは、個人や集団が善を目的として行動すること、言い直せば「価値理念」といった「善の構想」をもとに行動しないように、あるいはそうなったら調停できるように「上位概念」として正義のルールを定めるのである。

これは集団の行動をマネージメントしているとしょっちゅう出てくる問題で、目的をもって「価値理念」を前に出した集団が登場すると全体の組織が崩壊する。それを防ぐために善ではなくて正義のルールを作るのである。では、ルールとはなにか?という疑問が出てくる。

西欧でこの問題に伝統的に対応してきたのは「自然法」と「共和主義」である。普通自由主義と民主主義は相補って良い組織運営を可能にする、と考えるだろう。小学校の時に社会で民主主義というものを習い、物事は議論をして、そのあと何をするかをいくつか決めて、投票でそこから一つを選択しましょうと教わったことがある。小学校の2年生の授業だったか。60年近く前の話だが、小学校のクラスルームでもこれでは物事は決着しなかったのを覚えている。あるいは金丸信氏の『私の履歴書』にあった話も記憶に残る。戦前のことだが、小学校の時にみんなで物事を決めるときに自分の意見を支持してくれるならおまんじゅうを渡すとして仲間を作ったとあった。これを「取引民主主義」という。ここで終わればいいが、ナチズムのようにファシズム体制の成立も民主主義のなのもとでの投票だ。社会主義革命も同じである。自由主義民主主義は相対する原理であり、20世紀は民主主義が自由主義を破壊する歴史であった。

この二つを調整する考えがある。それが共和主義で、政治的な領域をできる限り最小化して、市場における自由な個人の行動をよしとする考えである。ハイエクはこれに近い。さらに法は何を基盤にして安定性を確保するのか、という古代ギリシャからの問題がある。これに対応するのが自然法思想である。

まず、自由主義、民主主義、共和主義、自然法という言葉を上記のように理解して、ハイエクの法の支配の考えを理解していこう。そのうえで、ハイエク理論の説明を理解しよう。ハイエクの『法と立法と自由 Ⅰ ルールと秩序』を元にした議論である。


2:「開かれた秩序」と「作られた秩序」

(1)二つの秩序概念及びルール概念

● ハイエクの二分法を理解しよう
ノモス(nomos) あるいはコスモス(cosmos)
これは自己増殖的な開かれた秩序を意味する。これから本エッセイで展開する「自生的秩序 spontaneous order」はこの中に含まれる。ノモスはコスモスを形成する一般的ルールでり、自生的秩序を形成するルールである。

テシス(thesis)あるいはタクシス(taxis)
さまざまな組織や限られた領域内における「作られた秩序」を意味する。テシスはタクシスの中でのみ通用する。

テシスは該当するタクシスの目的に合わせて「人間の手によって制定される。」ノモスは人間の行為の結果であるが、人間的設計の結果ではない。ノモスは歴史の慣習として生まれてきたものであり、宗教的概念に基礎をおくものではない。人間の行為の結果である。が人間が誕生したときにはすでに存在しているので、自然法的な性格も持つ。

(2)自由の法としてのノモス
ノモスは再分配のパターンなどの特定の目的を示すモノではなく、
・各個人の所有権
・私的領域の範囲
・行為に当たっての禁止事項
など限定的なルールにとどまる。

ノモスのルールは各人が自由に行動してよい領域をそうではない領域を確定させることで
・異なる他者同士の行動が互いに干渉することをできるだけ阻止する
これを踏まえてハイエクは次のように言う。
・法、自由および財産は各人の所有権は私的領域の範囲が確定されるからこそ、互いに衝突することなく、みずからの知識を自らの目的達成のために使用することが出来る。

自由の法たる「ノモス」は、他者の領域への干渉という不正義の防止のみを目的としていて、常に先行する行為とその結果に基づいている。

(3)組織の法としてのテシス

「テシス」とはハイエクによると、一定の目的を達成して政府を作動させるための機関を作り上げるために設計された組織のルール」とされる。さて、ハイエクは自生的秩序 Spontanious Order をよしとする立場をとっており、それをコスモスと呼び、それを支える方をノモスと呼んだわけだが、社会にテシスとタクティスが必要ないと言っているわけではない。ハイエクは政府の役割を最小にしようとするリバタリアンではないのだ。ここは非常にたいせつなところで、行政制度の存在を批判しているわけではない。人間の行為はノモスだけで行われるわけではなく、経済活動には企業組織が必要なように、家族や学校という組織が社会を構成している。これについてハイエクは次のように言っている。
   家族、農業、工場、企業、会社や各種団体、政府をふくむすべての公共機関は組織であり、これらはさらに包括的な自生的秩序に統合される。(『法と立法と自由 Ⅰ ルールと秩序』63−64頁)

ここは彼が設計主義 constructivismとして批判した考え方を見てみるとよく分かる。これは社会主義や福祉国家を批判するときにハイエクが用いた考え方であり、大きな社会をテシスに基づいて作ろうとする態度であり、目的的な行動ルール、目的依存的な組織のルールによって統括する態度を示す。社会はノモスによって作られていて、その下でテシスが動く、という形が大切なのである。

さて、ここで一度言葉を確認しておきたい。
コスモス ノモス
テシス タクティス

コスモス テシス社会 自生的秩序 開かれた秩序
テシス コスモス社会 設計主義 作られた秩序

となる。ここまでを踏まえて次の課題に移っていきたい。

3 裁判官の役割と内在的批判

1)正義感覚

このように説明してくると、ノモスをどのように発見するのか?という疑問が浮かぶだろう。ハイエクは、ノモスを能動的に発見する主体として「裁判官」をおく。ノモスは永久不変ではなく、現実と照らし合わせて変わっていく。これを発見していくのが裁判官なのだ。

ここでハイエクは「言語感覚」という言葉を使う。これは我々が普段言葉を喋るという行為を行っているときに、言語の機能つまり文法を把握しているわけではない。明示的に文法規則について意識していない。これを言語感覚と呼んだのである。

同様に、我々が行為を行っているときに、それが結果的に悪になるのか不適切に見なされるのかは意識していない。これを言語感覚にならってハイエクは正義感覚と呼んだ。これに従って行為を繰り返して合意を繰り返していく。そして相互依存のシステムができあがる。ここから現れてくるのが世代をこえて相互依存の体系の中にしか存在しないため明示的な言葉で語られることはないが、人々の行動の間に存在して行動を統制する「意見」である。ハイエクは次のように言っている。
   立法者の権力は、彼がつくる法が持つべき一定の属性に関する一般意見に準拠しているのであり、彼の意志は、その表現がこうした属性をもつ場合にのみ指示をえることができる。(中略)権力は、デイヴィッド・ヒュームが明察しているように、意見に依拠しそれによって制限されている。(『法と立法と自由 Ⅰ ルールと秩序』123頁)

ではハイエクの言う意見とはなんだろうか。

2)イデオロギーの意義と「意見」と「意志」の区別

ここでハイエクは意見意志の区別を説明する。
意見 :行為の様々な形態あるいは一定種類の行為の望ましさもしくは望ましくなさに関する見解。行為の具体的な目的とむすびつかないがゆえに一般性をもつ。
意志 :既知である特定の能面の状況と共に特定の行為を決定するに足りる、特定の具体的結果を目指す。『法と立法と自由 Ⅰ ルールと秩序』24頁)
意見と意志は区別され、意見の安定性が社会の存立の第1要件とされる。

さて、ここで整理をしておこう。

コスモス テシス社会 自生的秩序 開かれた秩序 意見
テシス コスモス社会 設計主義 作られた秩序 意志

となる。この分類から解るように、ハイエクはコスモスの流れが大事だという。そして意見とはイデオロギーであるとする。イデオロギーと聞くと、我々は具体的な社会的帰結を示す言葉だと思う。だがハイエクはイデオロギーを次のように説明する。

あらゆる社会秩序はイデオロギーに依拠しているために、そうした秩序における適切な法とは何かを決定できる基準に関する言明は、すべて同様に一つのイデオロギーであるに違いない。(中略)あらゆる文化的秩序はイデオロギーのよってしか維持できない。
(『法と立法と自由 Ⅰ ルールと秩序』78−79頁)

もちろんハイエクの考える自生社会をよしとする考えもイデオロギーなら、設計主義と批判される社会主義やファシズムの選択もイデオロギーである。だが、決定的に異なるのは自生的秩序のイデオロギーは意見であり、設計主義のイデオロギーは意志である点だ。

ハイエクはここでケルゼンが法理論からイデオロギーを抜き去って法実証主義を打ち立てたことを非難する。ケルゼンはファシズムの支配から法の正統性を擁護するためにこの理論を立てたと言われているが、ハイエクにすれば「無批判にイデオロギーそれ自体を葬り去ろうとする企て時代が、そうした悪しきイデオロギーの脅威にさらされることになった」(『ハイエクを読む』13頁)となったのだ。

さて、コスモス(ノモス) テシス社会 自生的秩序 開かれた秩序 正義感覚 意見という構造で考えると、社会的な文脈や構造が慣習という形でノモスを形成する、という流れのなかで「裁判官」はどのように正義感覚や意見という明示化されていないことを発見するのだろうか?ハイエクはここで内在的批判(immanent criticism)という考えを出す。

この考えは、太子堂氏の表現を引用すると、

所与のルールの枠内で新しい事象が発生してきたときに、それが拠って立つ個別的なルールを既存のルール体系との「整合性」ならびに「両立可能性」によって判定すること(『ハイエクを読む』p.13)

と説明される。体系から超越した俯瞰的な理性によるルール設計ではない点が重要である。こちらの考えは何度もでてくるが次の流れだ。
▷テシス コスモス社会 設計主義 作られた秩序 意志

つまりテシスが支配するルールは厳密に演繹的論理的であるが、
▷コスモス テシス社会 自生的秩序 開かれた秩序 意見
この流れだと、特定の社会でこれまでルールが運用されてきた文脈に依存して、ある環境で整合的であっても別の流れではそうでないこともある。

つまり、批判的検討をしないと答えは出ない。裁判官 は一つ一つの裁判において判決を下し、判例を示すことしかできない。つまり、ノモスが毎回修正されていくのである。

この感覚は英米法に親しんでいるとよく分かる。英米法は判例中心主義で、裁判官は「正義の適う行動ルールを漸次完全なものにして行くには、新しいルールを制定することによって、既存の体系を改善しようとする裁判官の熟慮の上での努力を必要とする、とハイエクは述べる。(『法と立法と自由 Ⅰ ルールと秩序』135頁)

ここにおいて、裁判官は法の体系全体を設計しているのではなく、意見やノモスとしてしか存在しない法の体系を、熟慮の上で意識的に抽象化して「改定」するのだ。裁判官は「意見」に従う範囲内で自由な裁量権をもつのだ。裁判官や立法者は法律体系を設計しているわけではないのである。ここで次のような流れが確立される。

▷コスモス テシス社会 自生的秩序 開かれた秩序 意見 裁判官

となる。では裁判官はどのような方法で設計主義でなないルール設定をおこなうのか、を明らかにすることが次の課題となる。

さて、今回はこのあたりにしておく。次の二つの流れを理解しておこう。

▷コスモス テシス社会 自生的秩序 開かれた秩序 意見 裁判官

▷テシス コスモス社会 設計主義 作られた秩序 意志


次回は 4:ルールの段階的構成 から説明することにしよう。

復習

今回の復習をしておく。

メタバース世界をコードで思考し、コードで実装するための手引き その2を上げました。メタバースのなかで仕組みを動かしているための多くの行動はコードで書くことになります。しかし、それは二項対立の論理文として法律を整理してコードで記述することだけではないのです。ほとんどの法律は論理文で書くことが出来ます。しかしこのような法律はテシスと呼ばれます。組織のルールのようなものです。しかしそのような仕組みだけでは、人間が自由を感じて生きていく社会、これを自生的秩序といいますが、これを形成維持することは出来ないのです。テシスで書かれたコードをとりまとめる上位の世界が必要になります。これをハイエクはノモス、あるいはコスモスと呼びます。この世界がなく、一番上の世界もテシスになると、全体主義になります。社会は機械になる。このような立場を設計主義と呼んで、ハイエクは強く批判したわけです。我々は普通に生きているときに論理的な法律の仕組みを感じているわけではない。秩序はあるが機械で作られた閉じられたものではなく開かれたものだ、とするわけです。我々が言葉を話すときに文法は意識しない。これをハイエクは言語感覚と呼び、社会をきちんと運営しているときの感覚をこれになぞらえて正義感覚と呼んだわけです。そしてテシスで対応が出来ない何かがおこったときには、「裁判官」が社会の意見を参考に、コスモスの解釈をかえていかなくてはいけない、としたのです。これは英国経験論の神髄で英米法における憲法の位置の問題にもつながっています。ここを考え抜いたのがHumeです。メタバースを考えると、メタバースのガバナンスの大半はテシスで書かれて、大きな効果がでるとおもいます。しかし、その社会が自生的であるためには、テシスで解けない問題をノモスに渡さなくてはいけない。ノモスは明示的には何も示されていないので、世の中の意見を参考に裁判官が解釈をしてノモスを新しくして、それに従ってテシスを書き直さなくてはいけない。ではどうやって裁判官はノモスをかきかえていくのか、これが第三回のテーマです。論理式を駆使して解ける問題はテシスの法律をコードで書くことで進んでいく。で、それでは上手くいかないときにノモスと対話してどうやれば良いのか。裁判官は人間です。ではノモスとの対話はどのようにおこなうことになるのか?深層学習の問題などがかなり深いレベルで出てくるな、という気がしますが、このレベルで議論すると、結論まで大分かかりそうです。でもこの問題、おわりまで、続けます。











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