ラトゥール『社会的なものを組み直す』をわかるまで読む
第5回
前回、第1の不確定性の発生源、つまりなぜANTの理解が難しいか、それは社会集団なるものはない、集団の組成だけだあるのだ、を論じた。難しかったと思う。ちなみにラトゥールはANT理解の難しさを5つあげており、またその説明が「難しい」ときている。なので、このノートではそれぞれをわかりやすく説明していく予定だ。
で、第4回では最初のわかりにくさのところで、社会というグループはなくて、グループを形成するという行為つまりパフォーマンスだけがある、ということを議論したが、第1の難しさを理解するためには、グループを形成するときにアクター同士でおこなわれる交換を記述する言葉の理解が必要となる。
ものとものとの交換では「市場」というものに交換が支配されているという考えに疑問は生まれない。アダム/スミスの「神の手」というやつだ。それは社会的であるとはシステムが平衡状態(equibirium) に到達するための活動ということだ。市場原理とはすべての交換が平衡に向かっていくと言うことである。ところがANTの交換あるいはサービスを提供するという動詞のサービスの交換ではこうした平衡状態を前提とすることはできない。社会的とは交換が成立したときに相手との間でだけ共有できるものである。現象学者はこれを間主観性(inter-subjectivity)として議論してきたが、それよりももっと動的な理解が必要だ。つまり、ある関係が次の関係に変化したときにおきるわずかな変化をとおして理解できるものをANTは扱うのである。ラトゥールはこれを次のように説明する。ちょっと長いが引用する。
It is only a movement that can be seized indirectly when there is a slight change in one older association mutating into a slightly newer or different one. Far from a stable and sure thing, it is no more than an occasional spark generated by the shift, the shock, the slight displacement of other non-social phenomena. Does this mean that we have to take seriously the real and sometimes exquisitely small difference between the many ways in which people ‘achieve the social’? I am afraid so.(p.37)
つまりいまあるグループ(組み合わせ)がつぎのあたらしいグループへと組み変わっていくときに、ちらっとスパークするときにのみ見えるような些細な変化、それまで社会的なるもの(グループ)に組み込まれていなかったものが組み込まれていく一瞬の動きあるいは前の状態からの差異についてしっかりと見ていかないと組み合わせとしてのグループあるいは社会とは何かを議論することはできない、というわけである。
ではそのささやかな差異に注目するとして、どうすればいいのか?ラトゥールの答えはアクターとアクターの結合の種類に二つあることに目を向けろということで、彼はそれをmediatorとintermediatoriesと呼ぶ。その説明に話を進めていきたい。
Mediator vs. intermediaries
人々が結合して新しい組織をつくる現象に「社会的なるものの社会学」(つまりはデュルケムに代表され、僕たちが大学で普通に学ぶ社会学)で扱ってこなかったわけではない。お祭りやトーテムが社会的な紐帯を強化するために必要となるとは社会的なるものの社会学でも議論されてきている。だが彼らにとって社会秩序が再生産される時のこうした現象は、「同じ」社会構造の表現に過ぎない。社会が再生産 repuroduce され同じ構造が祭礼やトーテムとして示される。この示されるという言葉は’represent’であり、ラトゥールの英語のテキストでは括弧にはいっている。また「同じ」はsameであり、こちらはイタリックである。そして再生産は括弧にはいって’repuroduce’である。何を言っているかというと、ダイナミックな現象にみえる祭りやトーテムへの進行も、変わらない同じ社会構造そのものを代表・表現したり、同じものをもう一度作ったりしていると解釈するのだ。representというのはもうちょっと説明すると、選挙で代議士(represent )を選ぶということと同じ意味であり、多くの選挙民の代理として議会で活動するからrepresentなのだ。ある人たちの意見を一人で代弁するというのが議員である。その用法だ。ようするにデュルケーム社会学的には社会構造が安定して存在していることを示しているに過ぎないのだ。
ところが、アソシエーションの社会学では、人々のグループはなにか強烈な糊とかそういったもので強固に結びつけられてはいない、とする。集団をむすびつけているのは ostensiveな活動と performativeな活動がある。ostentiveとは何があっても存在している状態である。performativeとは「第4回」で説明したように、動いている状態である。ダンサーがダンスをしているときにダンスは存在する。ダンスが終わればそれは消え去る。これがperformativeということだ。このことがわからないとANTの理解は難しい。
さてANT理論はここがわかると、最初の難関(といってもあと4つあるが)を超えることができる。mediatorとは社会的なものの社会学が考える交換を意味する。インプットが決まるとアウトプットがきまるような接続の事である。intermediariesとはインプットからアウトプットを予測することができない。こう書くと、mediator の方がシンプルなプロセスに見えるかもしれないが、実際にはインプットとアウトプットを一致させるために複雑なプロセスが発生しており、intermediariesは見た目複雑でもインプットとアウトプットが違うので、ただそれだけ、というわけだ。コンピュータシステムはうまく動いているときは複雑なintermediariesと見えるが、ひとたび動かなくなると、複雑でどうしようもないmediatorである。一方かろやかに進む学会のパネルディスカッションは複雑なmediatorによって行われている作業のように見えるが、実際は別のところで意思決定がおこなわれていることをうまくわかりやすいようにつないでいるintermediariesである、とラトゥールは述べる。社会現象を観察するときに目の前で行われている交換がmediatorなのかintermediariesなのかを判断することが非常に大切になってくる。
さて、目の前の交換がmediatorなのかintermediariesなのかを決めることができると、研究する社会は社会構造の「再生産されている reproducted」のか「作り上げられたのか constructed」を決めることができる。再生産に使われている道具や方法と作り上げるときに使われる道具や方法を区別することができるからだ。ラトゥールはこの違いを次のように説明する。絹とナイロンがmediatorを通じて関係しているとする。すると絹とナイロンの違いはいつも決まった方法で説明される。つまり、手触り、色合い、輝きが絹とナイロンは異なるという物質的な違いに話は終始する。ところが絹とナイロンがintermediariesで関係付けられていると、高級な人は絹をみにつけて、低級な人はナイロンを身につける、という言い方が生まれる。すでに存在している高級な人と低級な人の違いが、その社会的な仕組みとは関係ない化学的な絹とナイロンの違いに ’express in’され、’project upon’ されるのだ。例によって引用符はラトゥール自身による。つまり彼独自で強調したい表現なのだ。
従来の社会学では社会をすでに存在しているグループのどれかに分けようとする。その作業は「社会工学」として社会学が19世紀半ばに始まった事による。社会を構成する要素はなにか、つまり化学や物理学のような科学者が問いかける問題、さらには同じ意識で政治学が問いかけたような問題を社会学者は提示するべきだと考えられていた。革命の時代が続き、何が正しいのかわからなくなっていた19世紀において、もっとも妥当だと思える社会とはなにか、について社会学者は考えたのである。その結果として、観察した人がどのような行動をしているのか、に考えを及ぼさなかった。これはこの時代に勃興したもう一つの社会科学である人類学と大きく違っていた。人類学者は西洋社会とは違う社会に直面して、彼らの行動を民族誌として記述し、それを解釈して人間が集まって活動をする様子を研究した。社会学者はいまこそ社会を研究するのではなく、人々(アクター)がどのように行動するかの民族誌を描き、そこから解釈をして人々が集団を形成するプロセスに注目すべきなのだ。
このような行動をするために、mediatorとintermediariesという二つの簡単な道具は役に立つ。ANTで社会を研究するときに社会という全体を見ようとするのではなく、アクターがネットワークを(交換を)通してグループを形成する仕組みを見ることができるのだ。人々の行動は社会の形を示す言葉に翻訳することはできない。社会工学のように人々の集団を本来あるべき社会へと変えることはできない。人々の行動を観察して「解釈 interpret」する事しかできない。また次に第二の問題でみるように、アクターは人間だけではなく、アクターとアクターの関係をmediatorなのだintermediariesなのかを判断しながら記述する作業は社会的なるものの社会学(デュルケム社会学)が示す世界とは大きく変わっているのである。
(続く)