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蟹川の文化誌 蟹川と遊園地

新宿将軍

 蟹川支流は、新宿二丁目の太宗寺一帯で生まれた。太宗寺の境内には水が沸き、池があって、それが蟹川の水源だと言われている。ところが、水源はそれだけではなさそうだ。江戸時代の中頃には、すぐ南側の玉川上水から水路がつながったという。 (「蟹川の文化誌 もうひとつの蟹川」)
 水量を増した支流は北へ向かって流れていく。靖国通りを越えれば新宿五丁目である。その東側は江戸時代には武家地であり、明治時代になってからは内藤新宿番衆町と呼ばれた。

 おそらく明治時代に入ってからのこと、蟹川はこの地でせき止められ、大きな池が作られた。明治20年の「東京実測図」では、北上する蟹川が、この一帯で瓢箪のように大きく膨らんでいる様子が確認できる。そして、明治43年の地形図では、その池の南側、つまり蟹川のやや上流ににもう一つ、北側のものより小さめの池が認められる。
 新宿区立図書館資料室紀要「豊多摩郡の内藤新宿」には、明治35年頃の内藤新宿を知る古老から聞き取って作成したという手書きの地図が記載されているが、この地図にも、やはり、太宗寺から北上する蟹川が番衆町で南北ふたつの池を形成している様が描かれている。

 明治16年頃、番衆町の地所を買ったのが、浜野茂である。米相場師として一代で財を成し、「新宿将軍」と呼ばれた人物だ。明治27年には衆議院議員に当選し、一期を努めている。
 浜野邸は、南側は靖国通り、北側は東京医大通りに面していた。西端は今の「三番街」であり、東端は今の東京電力のあたりにまで広がっていた。その広さについて、3万6千坪などと記しているものもあるが、実際には1万坪ちょっと、といったところだろうか。それでも、東京ドーム1個分に相当する。

靖国通りの北側一帯すべてが浜野邸だった

 いずれにせよ、この頃、蟹川は浜野邸の敷地を流れていたことになる。二代目浜野茂、つまり先代・浜野茂の息子によれば、父親がこの土地を買った時、池はすでにあって、鴨が毎年来ていたといい、その後、鴨池として整備されたという。(「新宿の鴨場」『豊多摩郡の内藤新宿』所収)

 また、二代目は、玉川上水のことについても書き残している。

 「私の家の鴨場の三ツの池には木製の樋でひかれた玉川上水の水が流れこんでいた。」(「その頃の新宿駅附近」『新宿驛八十年の歩み』所収) 

 玉川上水と蟹川との関係については、「蟹川の文化誌 もうひとつの蟹川」に、すでに書いた。浜野は、池が3つあったと書いている。手元の地図には載ってはいないが、池は、もうひとつ作られていたのだろう。

 地図で確認できるふたつの池のうち、北側の池は鴨池として整備された。実は、この頃の新宿には、4つの鴨池が存在し、毎年秋になると、シベリアから鴨の大群が飛来していた。4つの鴨池とは、すなわち、新宿御苑の池、そして、蟹川本流の水源付近に存在した大村邸の池、蟹川の本流と支流とが出会う付近に存在し、今では「新宿イーストスクウェア」となっている前田公爵邸の池、そして、浜野邸の池である。浜野邸では、一日で最大160羽の鴨が穫れたという。穫れた鴨は、すき焼き風に焼いて客に供された。浜野邸で鴨を食した客の中には、東郷平八郎や頭山満、後藤新平などがいた。彼らは、食するだけではなく、自ら鴨を獲ってもいたらしい。当時東京市長だった後藤にいたっては、市役所への出勤前にやってきては鴨を獲っていたのだという。

新宿5丁目の通り。この一帯が大きな鴨池だった。

 浜野とも親交のあった新聞記者の朝比奈知泉が、鴨池の様子について書き残している。

 「中央に大池を構へ其の周囲に土手を巡し、池より小溝幾筋かを分かち、八方に水を通じ、(後略)」(「老記者の思ひ出」)
 
 蟹川の水脈に恵まれた当時の環境が想像できる。

 「新宿将軍」浜野茂は、大正3年に亡くなった。
 その後、大正12年の関東大震災の際には、浜野邸で、3000人ほどの避難者を受け入れたという記録も残っている。 
       (大日本震災調査会 編『大震災史 : 振天動地』)

新宿園誕生


 そして、その関東大震災後、この広大な土地を購入したのが、大正9年に堤康次郎が興した「箱根土地株式会社」である。堤は、西武グループの創業者であり、堤清二氏や堤義明氏らの父親にあたる。この「箱根土地株式会社」が、のちの「国土計画」であり、プリンスホテルとなるのだ。
 「箱根土地」は、この土地を遊園地に仕立て上げた。その名も「新宿園」という。この頃、東京の郊外では、鶴見の「花月園」、西尾久の「荒川遊園」、練馬の「豊島園」など、多くの遊園地が開園しており、「新宿園」もその時勢に乗ったものだったようだ。
 大正13年の開園の際には、岡譲二、栗島すみ子など、松竹撮影所のスターが訪れたといい、また、余興として「野外舞踊大会」が開催されて、水谷八重子をはじめ芸術座一同が出演したという。園内に作られたのは、ダンスホール、水禽舎、活動写真館「孔雀館」、そして、劇場「白鳥座」には専属歌劇団がおり、演舞場「鴎座」にはロシアのバレエ団も招聘された。

 紀伊國屋書店の創業者・田辺茂一は、遊園地について、次のように書き残している。

 「邸跡であったから、池あり、築山ありで、風情があって雅致ある遊園地であった。
 孔雀がいたり、檻には猿もいた。園内の奥の方に劇場風の小屋もあった。『白鳥座』と云った。
 来日したアンナ・パブロバの舞踊をここでみたことがある。
 岸壁を背景にしたような野外劇の舞台もあった。
 十七のころの芸術座所属の水谷八重子が、薄い白い沙羅の布をまとって『サロメ』を演じた。盆の上のヨカナンの首を擁して、すでに成熟した彼女の肢体が、薄物を通して、美しかった。カブリつきで、私はつばをのんだ。十八の夏の夕であった。」
                    (田辺茂一『わが町・新宿』) 

 田辺少年にとって、新宿園は、どこかドキドキするような青春の思い出だったのだろう。1万坪という限られた敷地の中に、これでもかと施設を詰め込んだ遊園地の様子が見て取れる。一方で、劇作家の藤森成吉は、「白鳥座」で観劇した時のことを次のように書いている。

 「新宿園と云ふところも、従って白鳥座も、私には初めての場所だった。協會の手紙には、『小劇場として充分設備のととのった小屋でございますから・・・』とあったが実際はそうとは思へなかった。第一観客席から云っても、腰かけのこはれた、或はなくなったやうな座席がドッサリで、わけもわからない子供まで一緒に入る。そこへ下がたたきで下足のままなので、演技中でもガタガタひどい下駄の音を立てたりする。セリフの透りはわるく、気もちは落ちつかず、私は最前席に行ってやっとハッキリ聞くことがで出來た位だった。照明や舞台装置もいけなかった。」 (藤森成吉『狼へ:わが労働』)

 散々な書きぶりである。欲張って多くの施設が作られ、それらは当時としては最新設備だったと伝えられるものの、プロの目から見るとその細部は安普請だったということだろうか。

蟹川の流路

 さて、鴨池はどうなったのか。

 「新宿園」を設計したのは、造園家・龍居松之助であった。龍居は、その著書「続庭の造り方」(雄山閣)の中で、新宿園の設計の経緯について書き残している。それによれば、龍居は当初、鴨池を活かす方針でいたという。鴨池を少しだけ埋め立てる一方で、中の島は大きく築き直して、子どもがボート遊びを楽しめるように構想していたのだ。少しでも自然の風情を残そうとしたと書いている。
 ところが、行政指導が入り、当初の計画が頓挫した。
 結局、敷地の北側にあった鴨池は埋め立ててしまった。可能な限り元の風景を残したのは南側にあった池で、その上で、ボート遊びもできるようになった。池の南隅には滝も造った。ただ、龍居は、池の水源は敷地内の井戸だとしている。もともと、敷地内のふたつの池は、蟹川をせきとめて作られたもののはずだ。ところが、わざわざ、井戸を水源としたといい、川や水路に関する記述は出てこない。龍居がいう井戸というのは、南北ふたつの池の間に位置しており、おそらくは、蟹川の流路上にあったもの、つまりは、蟹川の水脈がもたらした井戸だと考えられる。すぐ近くに作られた水禽舎も、この井戸から水が引かれていたという。

もともとの蟹川流路はこのあたりだろうか

 明治20年代の「東京実測図」が示すように、明治16年に浜野茂がこの場所に土地を買った当時、蟹川は間違いなく敷地内を流れており、すでに池も存在していた。その後、池は鴨池として整備され、その南側、つまり、蟹川のやや上流にも新たに池が作られた。
 ふたつの池を結ぶ川は、明治30年代にもまだ残っていた。地形図と、古老たちの記憶による地図が、その事実を伝えている。
 ところが、遅くとも大正12年の関東大震災後の新宿園の造成時には、蟹川は姿を消していたことになる。

 どうやら、明治の終わり頃に、蟹川の流路に異変が起きていたらしい。

 その手がかりは、「新宿園町会史」に掲載された、「明治の頃の当町現五条通り想像図」と題した一幅の絵画にある。絵を描いたのは海老沢良雄氏。この海老沢氏というのは、昭和46年に新宿園町つまりかつての番衆町の副町会長となった人で、この町会史の相談役であり、美術も担当している。この図版については、巻末に、古老の昔話などを参考に描いたことが記されている。だから「想像図」としているのだろう。
 絵には、次のようなキャプションが添えられている。

 「画面左側川崎山、右側浜野邸築土塀(この屋敷跡が現新宿園町会)。前方奥に馬車業者部落があり、夕刻画面の小川で馬を洗う風景がよく見られた。」(『新宿園町会史』)

 画面には、土塀で囲まれた浜野邸と、その塀沿いに流れる「小川」が描かれている。蟹川だろう。つまり、かつては浜野邸の敷地内を流れていたはずの蟹川支流が、敷地の外を流れていることになる。描かれた「小川」は、川というよりも、側溝のような人工的な水路に見える。つまり、太宗寺から北上してきた蟹川は、浜野邸の門前で軌道修正を加えられ、新たな水路を得て、そのまま塀に沿って西に進み、敷地の西端で北に折れ、そのまま塀沿いに北上していた。およそ30メートルほど西に軌道がずれたということになる。この塀沿いの道は、今の「三番街」である。

浜野邸の西端。今は「三番街」。明治時代の末、川は、この道の土塀沿いに移されたか

 同誌には、さらに、「昭和初期の町内居住者」という手書きの地図もあり、そこには、五条通り沿いに北上して、今の医大通りを右折し、東に30メートルほど進んでから改めて北上する「ドブ川」が描き込まれている。
 つまり、蟹川から引いた水路は、敷地を避けて、その塀沿いにぐるっと迂回して、北側で再び東に軌道を戻し、もとの流路に合流していたのだ。

 浜野邸の塀の外側に沿うように新たな水路が作られ、浜野邸の敷地内を流れていた蟹川は枯渇したか、埋め立てられたのだろう。ただ、その地下には水脈が残っており、井戸が掘られて、敷地内に残るふたつの池の水源となっていた。浜野邸が新宿園になっても井戸は生きており、人工湖や水禽舎に水を供給していたのである。
 今も、靖国通りと東京医大通りを結ぶ道は何本もあるが、必ずしも、蟹川の流路を示すものではない。この敷地を流れていた蟹川は、明治の終わりから大正に至るどこかで消失しており、その跡地には遊園地が作られたのだ。流路の痕跡はとうに失われていたのである。

 ところが、新宿園は長くは続かなかった。経営不振に陥り、わずか2年で閉園を迎える。園内にあった水禽舎は、国立駅前に移設されたという。番衆町は、昭和53年の住居表示実施以降、新宿五丁目と町名を変える。関東大震災後、まさかこの町に遊園地が造られたなどと、誰が想像できるだろうか。

新宿六丁目。支流が本流と出会った場所

 蟹川支流は北上する。
 番衆町の北、東京医大通りを越えると、もう東大久保、今の新宿六丁目である。この一帯で、支流は、西から流れてきた本流と出会い、重なり、ひとつの流れとなる。

 「大きな窪」大久保の誕生である。

 

参考文献


『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』
       東京都新宿区教育委員会 1984
『地図で見る新宿区の移り変わり 四谷編』
       東京都新宿区教育委員会 1984
『新修 新宿区町名誌』新宿区立新宿歴史博物館 2010
五十年誌発行委員会『新宿園町会史』新宿園町町会 1982
『豊多摩郡の内藤新宿』東京都新宿区立図書館 1968
田辺茂一『わが町・新宿」旺文社 1981
野村敏雄『新宿うら町おもて町』朝日新聞社 1993
龍居松之助『続庭の造り方』雄山閣 1926
藤森成吉『狼へ:わが労働』春秋社 1926
老川慶喜『堤康次郎』中央公論社 2024
大日本震災調査会 編『大震災史 : 振天動地』帝国講学会 1923
『ステイション新宿』新宿区立新宿歴史博物館 1993
朝比奈知泉『老記者の思ひ出』中央公論社 1938
内田清之助『ツグミ渡るころ:動物随筆選』創元社 1951
『新宿驛八十年のあゆみ』日本国有鉄道新宿駅 1964

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