短編小説『娘が羽ばたいて行く』
「お父さん、ちゃんと持ってなきゃだめよ」
せっかくの休みだというのに、娘に無理やり近くの公園まで連れてこさせられた。
娘のカンナが、どうしても補助輪なしで自転車に乗りたいので付き合わされている。
補助輪を外した途端に、不安になったらしく、荷台をしっかりと持って傾かないように支えろという。
支えるというより、右に左に倒れそうになるのを引っ張り上げる様な感じで、結構重労働なのだ。
それでもカンナは、私が支えているのをいいことに勝手気ままに自転車をこぎ出す。
「お父さん、しっかり持っていてね」
カンナは、補助輪の子供じみたガラガラという音から、解放されたのが余程嬉しいらしく、公園の周りの舗装された遊歩道を何周も回る。
私は、ついて行くのがやっとだった。
「お父さん、しっかり持っていてね」
カンナは、私が息をはあはあと言わせて、汗まみれになりながら、荷台を支えながら付いて来ているのが、嬉しいらしくますますスピードを上げてゆく。
腰をかがめて両手で荷台を持って、走るのが段々と辛くなってきた。
しまいには、支えるというより、引き摺られるように、自転車について行く。
カンナは、お構いなしにスピードを上げる。
あっと、思った瞬間に手が離れた。
「お父さん、ちゃんとついてきてよ」
と、笑い声と共にカンナは、離れて行く。段々と離れて行く。
手を伸ばす。届かない。
カンナが、すうっと離れて行く。
籠から、抜け出した小鳥のように。
羽ばたいて行く。
私は必死に追いかける。
カンナをこの手で捕まえないと。
不安が襲い掛かる。
カンナが、何処か遠いところに行ってしまう。
取り戻さないと。
手を伸ばし、必死に追いかける。
カンナは、自由を得たのが、余程嬉しいらしく、益々離れてゆく。
黒髪が、風に乗って踊っている。
「お父さん、お父さ~ん」
嬉しくて歌うように、名前を呼ぶ。
もう駄目だ。
力尽きてもう走れないと思った時、カンナの自転車が大きなブレーキの音を立てて止まった。
「こら、勝手に行ったらだめだよ。危ないじゃないか」
「お父さん私一人で乗れたよ。もう平気だよ」
カンナの自慢気な顔を見たとき、安心した。
しかし、それ以上に寂しさを感じた。
カンナが急に、大人びたように見えた。
今までと違って別の世界へ行ってしまったような気がした。
カンナは、私の手を離れて、旅立ってしまう。
寂しい。
心のどこかでこのままで居て欲しいと思った。
ウェディングドレスを着たカンナを前に、なぜかその時の事を思い出した。
今度は、本当に旅立ってしまう。
そう思ったとたんに、涙が溢れて出てきた。
カンナの純白のドレスが、涙でかすんで見えなくなった。