月は見ていた(『龍馬が月夜に翔んだ』より)
ここを飛び降りるしかない。
龍馬は、欄干を跨ごうとするが力が出ない。
頭から乗り越えようとした瞬間。
龍馬に衝撃が走った。
背中を力任せにこん棒で打たれたような衝撃。
見ると、胸から角のようなものが飛び出した。
大石鍬次郎が背後から、龍馬を手槍で突いたのだ。
龍馬は、心臓を後ろから一息に差された。
心臓を貫いた穂先は、勢い余って龍馬の体を突き抜けた。
龍馬は、刺された衝撃で欄干から前のめりになって、頭から下に落ちそうになる。
次の瞬間、大石は素早く手槍を引いた。
その反動で今度は、仰向けになった。
不気味なほどに沈黙。
仰向けに倒れる瞬間に、満月が目に入った。
見事なほどの満月。
後から、拳銃を握ったままの右手が満月の前を横切る。
それは、まるで月に向かって、龍が駆け昇って行くように見えた。
「お龍」
龍馬は、物干し台に仰向けに倒れた。
しっかりと開かれた両目は、月の光を帯びて輝いていた。
「大石さん、違う。それは、坂本龍馬だ」
血の滴る脇差を提げたままの服部が叫ぶ。
「誰であろうが、逃げるものは斬る。中岡は?」
振り返ると、仰向けに倒れている者がいる。
「誰が、中岡を斬った」
「偶然だ。坂本の拳銃の弾が、暴発した」
大石は、右手に持った手槍を後ろに回し膝を折って、屈みこんで中岡の息を確かめた。まだ息はある。
「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」
大石は、この言葉を、念仏を唱えていると勘違いした。
「分かった。成仏させてやる」
大石は、脇差を抜くと中岡の喉を一突きした。
中岡は、口から血を噴き出して、目を見開いたまま息絶えた。
「お前らも、同じ目に遭いたくなければ、他言するな」
谷干城と田中光顕は、藤堂平助の凄みで動けないところに、大石の所業を目の辺りにして、恐怖で体が震え出して、その場にへたり込んだ。
結局、この二人は、大石の言ったことを生涯守り通した。
そして龍馬と中岡の死を前にして、何も出来なかったことを一生悔やみ続けた。
月だけが見ていた。
真実をありのままに見ていた。
しかし、満月の光に照らし出された人々は、芳醇な葡萄酒の酔いのように、幻想的になった。
誰もが、それを思い起こす時に、あの時は酔っていたからだと言い訳する。
もう一度、月を見上げよう。
月の光に全てをさらけ出そう。
もう目を覚ましてもいい頃だと気づくはずだ。
完
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