武蔵、斬られる!(『宮本武蔵はこう戦った』より)
小次郎は武蔵が自分の間合いに入る紙一重の時に、頭上に振りかぶっている長光を振り下ろした。一拍子といえども、ほんの僅かながら時間がかかる、突進してきている武蔵の速さであれば、切先が武蔵の頭上に達する時には間合いを一寸五分ほど超えており、充分に斬ることが出来る。
小次郎は充分に確信を持って斬り下ろした。切先は見事に、下げている武蔵の頭上を捉えた。あとは長光の思うがままに任せておけばよかった。いつも通りの働きをしてくれる。しかし、まさに長光が武蔵の頭に切先が触れるか、触れないかという時に、異変が起こった。
武蔵が止まった。そして砂の中に沈んだ。武蔵が急に縮んだ。頭をかすめた切先は鉢巻だけを真っ二つにした。きつく締められた鉢巻は解き放たれたようにはじけ飛んだ。しかし、むなしく切先は武蔵の鼻先を掠めて通り過ぎる。「届かない」小次郎は、切先が武蔵の顎先を通り過ぎる時に、上体を前に出し、無理やり届かせようとした。
それは、かろうじて武蔵の袷部分を切り裂いただけで、肉はおろか皮にも届かなかった。上体のぶれは、切先の勢いにも影響を与えた。その勢いは、最初の振り下ろす時の速度より衰えを見せて、下りてくる。最初の予定通り腰の高さまで来た時に止めた。突進する武蔵の体を串刺しにするつもりで止めたのだが、今は切り損ねた以上、正面突きを出すしかないのだ。
小次郎は、はっとした。頭では突けばよいと思っていたが、無理やり届かせようとしたために、上体は前屈みになり、両手も伸びきってしまっている。この体勢からは、突くことが出来ない。すかさず、燕返しに転じようと、腰をひねり、太刀を左に払った。
武蔵は、目を閉じた闇の中で小次郎の切先の動きを感じていた。頭上から鳩尾まで、自分の中心を一直線に小次郎の備前長船が通り過ぎていった。それは、想像していたより遥かに早かった。斬られるとはこうゆうものかと思った。痛みも何も感じなかった。己はすでに死んでしまったのだろうか。死とはこのようなものなのだろうか。
武蔵は死を受け入れることで無になれる気がした。臍のところまで切り下げられた時に、がくんと前へつんのめるような衝撃が走った。そして闇に沈んだ体が、ようやく浮かび上がってきた。同時に、砂の中に埋もれていた櫂の木刀の切先が、海の中から銀色の水しぶきを放ちながら顔を出した櫂のように、乾いた砂をまき散らしながら顔を出した。
そして、それはまるで意志を持った生き物のようにゆっくりと放物線を描きながら動き出した。武蔵は目を閉じたまま櫂の木刀の動きを感じていた。邪心を起こして手を加えると木刀はあらぬ方向に行ってしまう。力を入れてはいけない。
無心になるのだ。全速力で走った時の力の余韻が、木刀に伝わっているはずだ。何もしないでも、木刀は前に振りだされる。正面には小次郎がいる。己が斬られて生を失っていても、それは振りだされる。
己を信じろ。武蔵は念じた。