短編小説『あの頃の記憶を残しておきたい』
「すいません、患者さんのご家族の連絡先は分かりますか?」
「はい」
ポケットの中に手を入れて携帯電話を取り出そうとした時、田中の家族は高校生の頃の憧れであった小津さんであることを改めて認識した。
救急隊員がいきなり、小津さんに今の状態を告げたら、小津さんはどう思うだろう。
自分が側にいながら、それを傍観するには忍びないと思った。
「良かったら、私が連絡を取りましょうか?」
「はい、お願いします」
生死の境にいて、救急車で搬送中の田中の前で小津さん電話するのは、何かしらの罪悪感がある。
掛けるが、呼び出し音がなるだけで、なかなか出てくれない。
また、大きく車体が揺れた。
この振動で、田中を縛り付けているストレッチャーが、担がれた神輿のように複数の鈴の音をたてて揺れた。
この振動で、田中が目を覚ましてくれないかと思う。
夫のいない時を見計らって、電話を掛けてきていると思われているのだろうか。諦めかけていた時、やっと繋がった。
「小津です」
わざわざ旧姓で出てくれた。
懐かしい響きと、秘密を持つもの同士のように低く抑えた小津さんの声。
このまま何事もなく話したいと思った。その反面、これから話さなければならない内容を思うと胸が痛んだ。
言葉に詰まった。
涙が溢れて、堰を切ったように救急車の床に落ちた。
何の脈絡もなしに、自宅の夕食時の風景が思い浮かんだ。
子供二人と妻の小夜子が席に着いて、夕食を食べている。
自分がいないのにもかかわらず、何事もないように三人で楽しそうに食べている、そんな映像が浮かんだ。
自分は、居場所がなくなったような気がした。
「田中さんの奥さんですか」
「ええ、山下君?」
「はい。ご主人とご一緒していたのですが、ゴルフ場で倒れられまして、今救急車で運んでいる途中です」
あくまで冷静に話したつもりだが、それが返ってぎこちなくなってしまった。
「ご一緒だとは、主人から聞いておりましたが、どういう具合なのですか」
小津さんの毅然とした受け答えを聴くと、無性に悲しくなった。
また、涙が溢れ出てきた。
「ごめんなさい。助けようとしたのですが、意識が戻らないのです。ごめんなさい・・・」
言葉に詰まってしまった。
「行きます。すぐに行きます。何処に行ったらいいですか?」
救急隊員がバインダーに走り書きで「西宮市民病院」と書いて見せた。
「西宮市民病院に行くそうです」
「わかりました。すぐに行きます。でも、ここからでは、一時間ではいけないわ、二時間もかからないと思うけど、山下君、待っていてくれる?」
「はい。待っています。お願いします」
優しい先生に叱られた、児童のようになってしまった。
小津さんにまた会えると思うと心がさざ波のように揺れ動く。
小津さんは、このような状態の田中を見てどう思うのだろうか。
取り乱すのであろうか。
それを思うとさらに心が痛んだ。
兎に角、小津さんには謝らないといけないと思う。
一緒にいながら、自分の手で田中を救うことが出来なかったことを謝らないといけないと思う。
AEDの不具合で取り乱してしまったことも、言わなければいけないと思う。
本当にそう本心で思っているのか。
自分はそう言い切れるのか。
神に誓うことが出来るのか。そう思うと心が揺れる。
モニターの信号音と救急車の不規則に振動する音が声になって、自分に問いかけてくる。
自分は今、嵐の中で、翻弄される舵の壊れた船の中にいる。
あの時自分の中に小津さんがいたのだ。自分の中に、小津さんが存在していたからこそ、田中を助けようとしたのではないだろうか。
見事に田中を死の淵から救出する英雄を演じて、小津さんの賞賛を得ようとしたのではないだろうか。
そんな浅ましい自分がいなかっただろうか。
いや、自分は田中を何とかして、救いたいと思っていた。
一心に心臓マッサージをしている時にそんな余裕はなかった。
唯、田中を救おうとしていただけだ。
尊敬している田中を助けたいと思っているだけだ。世話になった田中を何とかしたいと思っていただけだった。
しかし、自分の手で助けることが出来なかった。結果的には何も出来なかった。けたたましいサイレン音の割には、もどかしいほど慎重な運転で、走行する救急車が腹立たしい。
壊れたAEDとこの救急車は、もし田中に万が一のことがあれば、恨んでやる。万が一とは、どういうことだ。
もし、そんなことがあれば、自分のせいだ。
靴を履かずに、汚れた靴下のままの自分の足元を見た。
何か取り返しのつかない重大な過ちを起こしてしまったような気がした。
護送車で運ばれていく囚人になったような気がした。
このままでは、小津さんに会うことが出来ない。顔を合わせることが出来ない。最早、小津さんに会う資格を失った。
この場から、自分を消し去りたい。
小津さんの困惑した顔、田中の妻としての儀礼的な態度を思い浮かべると益々、小津さんが遠くに行ってしまう。
小津さんが、自分の中で過去のものになってしまう。
目の前のストレッチャーに乗せられて、横たわっているのは田中ではなくて自分なのかも知れない。
自分が死の淵にいるのかもしれない。
自分が、深い暗闇の奥へ運ばれているのかもしれない。
寒い。兎に角、寒い。
震えが止まらない。
「山下さん?」
突然、呼ばれて、顔を上げた。そこには、眼鏡をかけた小柄の中年の婦人が立っていた。
あの頃の小津さんの面影は何一つ見出すことは出来なかった。
それは、田中の奥さんであり、私の中にいる小津さんではなかった。
それが、返って自分を安心させた。
落ち着きを取り戻すことが出来た。
「ご主人とゴルフをしている時に、突然倒れられました。心臓マッサージをしたのですが、なかなか上手く行かなくて、救急隊員の人が来て、何とか蘇生だけはしたのですが、意識は戻りません」
「色々と、お世話をかけてすいません」
突然、小津さんの両目から、涙が流れ落ちた。両手で顔覆い、今にも崩れ落ちそうになった。
私は、取り乱す小津さんを見て、ますます小津さんが遠くに行ってしまうように思えた。
記憶にあるルノワールのイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢のような小津さんは、消え去ろうとしていた。
田中にもしものことがあれば、それはより明確になるであろう。
田中と言う存在が、この世から消え去れば、私の中の小津さんは永遠にいなくなってしまう。
それは、自分の中の記憶の消滅だけでなく、自分の存在をもなくしてしまうことを意味してぃた。
小津さんの面影を残している妻の小夜子も意味もない存在になってしまうのであった。
私は、全てを失う。
目の前が土砂降りの雨に打ちたたかれるフロントウィンドウのようにとめどもなく涙が溢れてきた。
それは、ナイフで横腹を刺された人から出る血のように床にぽたぽたと落ちた。
「小津さん。御免なさい。僕が、助けることが出来なかったのです。何とか、何とかしたかったのですが・・・。申し訳ありません」
気が付くと、小津さんの足元に膝まずいていた。
心のどこかで、田中と同様に小津さんに何処にもいかないでくれと祈っていた。消えないでくれ。
何処にもいかないでくれ。
跪きひたすら祈り続けた。
私は、昼も夜も分からない暗闇の独房に閉じ込められた囚人が、再び扉が開かれるのを待つように耐えた。
そして待ち続けた。恐ろしく長い時間をひたすら待ち続けた。
つづく