短編小説『ひとりで歌うのが好き』
ワタシは、お父さんが自殺した日から、ピアノを弾くのをやめた。
なぜなら、ピアノを始めた頃から、お父さんと遠く離れてしまったような気がするから。
急にピアノが憎くなった。
あれほど練習したのに、弾くとますますお父さんと離れてしまうような気がしたのでやめた。
代わりにギターを始めた。
お父さんの部屋には、ギターがあった。
まだ仲の良かった幼い頃のある日、お父さんがひとりでギターを弾いていた。
近くに寄って、だまって聴いていると、「弾いてみる?」と言って、ギターを持たせてくれた。
お父さんの大きな手で、ワタシの小さな左手をせいいっぱい拡げてもらって、コードを押さえた。
花がつぼみから花びらを開いていくように右手をこわごわと開いた。
爪が弦をこすった。
空気がひびいて、お腹にしみるような重々しい音がした。
それは、何だかオトナの音のような気がした。
お父さんの声のようにひびいた。
その音を思い出した。
お父さんの声をききたい。
だから、ピアノをやめて、ギターを弾くことにした。
その方が、もういなくなったお父さんの少しでも、近くにいられるような気がしたから。
通っていた音楽教室もかえた。
ギターを習い始めてすぐに先生から、「美月ちゃんは、いい声をしているから歌ってみたら?」と勧められて、シンガーソングライターのようなことを始めた。
ひとりで歌うのが好きだった。
ひとりで、亡くなったお父さんに聞いてもらうように、歌を作って歌うのが好きだった。
そんなわけで、人前で歌うのは苦手。
何度か、コンクールみたいなものにも出てみた。
何だか、苦手。
人に見られるのがいや。
知らない人の視線が自分に向かって来るのが耐えられない。
みんなの目が、真冬の風のように全身を凍らせてゆく。
やっぱり知らないひとの前で、歌うのは耐えられない。
ひとけのない真夜中の街角で、ひとりでひざをかかえて、ふるえている自分がいる。
だから、耐えられない。
わたしは、暗闇に向かって、お父さんを思いながら歌う。
そういうのが好き。
ひとりで歌うのが好き。
お父さんを思い出しながら。
仲の良かったあの頃を思い出しながら。