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短編小説『煌めく川の向こう側』

いつもの会社帰り。

いつものホーム、いつもの時間の地下鉄、いつも乗る前から2両目の3番目

出入り口。

いつもと違うのは、私の座っている前に、香田美月が立っていることだ。

彼女は、私が支社長を務めている会社の2年目の若手社員。

面識はなかったが、この前偶然に帰りの地下鉄が一緒になって、翌遅くまで

喫茶店で話し込んだ。

そして、ひょんなことから彼女のマンションに招待されて夕食を呼ばれることになった。

自分の娘と同年代の同じ会社の社員。

この状況で、どのように感情を持っていけば良いのだろうか。

非常に複雑なのである。

生憎、二つ空いている席がなかったので、私だけが座った。

真白な洗いざらしのコットンのシャツと、薄いブルーのリネンのギャザース

カートにキャンパス地のスニーカー。

美月はこの間会った時とは別人のように見える。

見ているこちらまで、清々しくなる。

ただ黒縁の眼鏡だけが同じだった。

そして、それは私の理性を保つために重要な役割を果たしていた。

前会った時と全然印象が違う。

いや、私の中で封印していた心の扉がガタゴトと音を立て始めたのだ。

心がときめくのだ。

あの頃のように、闇雲に走り出したくなる。

また、スタンダールの『赤と黒』を読みたくなった。

今ならジュリアン・ソレルになれるかもしれない。

そう思ったことを思い出した。

美月が正面に立っているので、窓ガラスに映し出される自分の姿を見ることが出来ない。

いつもなら、それを見て現実に引き戻される。幻想はかき消される。

窓ガラスに映る自分の老いた姿が理性を取り戻してくれる。

目の前には、美月がいるのだ。

地下鉄が地上に上がり、淀川の鉄橋を古い機織り機のような音を奏でながら渡ってゆく。

私にとって大きな淀川は一つの境界線になっている。

それは相反する世界の懸け橋。

公と私。

川の向こうは、肩書のないプライベートの世界。

今、それが切り替わって行く自分を感じている。

渡り切ると肩書を外した本来の自分を

取り戻す。

美月の白いシャツに鉄橋の斜めのストライプの影が横切ってゆく。

私はそれを古い映画でも見るように楽しんでいる。

それ以上視線を上げるのは失礼な様な気がしてためらった。

「支社長、綺麗な夕日です。淀川が光り輝いてすごく綺麗」

振り返って車窓の外を見た。

荒々しく燃え盛っていた太陽は、ようやく落ち着きを取り戻し姿を消す前の一時に、その成熟した姿を人前に晒していた。

遠くに見える高層ビルの群れ。

青空を駆け巡る綿菓子のような雲。

朱色を帯びた太陽。

それらを支えている銀色の鱗のように小さな輝きを幾重にもたたえて煌めいている淀川。

「綺麗だね。絵に描いて残しておきたいな」

「写真じゃないのですか?」

「写真は、苦手だ」

「絵は、御上手なのですか?」

「書いたことがない。もっと下手だと思う」

自分でも話の辻褄があっていないことに気が付いて、振り返って美月の顔を見上げた。

そこには、今にも吹き出しそうな美月の顔があった。

お互いに思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

「リタイヤしたら、ゆっくりと油絵でも描こうと思っています。リタイヤし

てからね」

写真では記憶に残らないので、脳裏に焼き付けて置きたいと言うようなことを話したかったのだけれどうまく話せなかった。

私の中では、今の淀川の眺めのように脳裏に焼き付いた映像を頭の中に残すような癖がついてしまっている。

この歳になってくるとそれらの映像がが沢山溜まってきている。

でも今の私には、それを取り出して、過去に浸るのは早すぎるような気がする。

未来を閉ざして、命を削るような作業のように思えるのだ。

これをどう表現したらいいのだろう。

私は、いつもの小難しい顔をした初老の男に戻っているのを感じた。

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大河内健志
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