短編小説『彼女の瞳に輝く花火』
息も切らせず上がっていた花火は、1時間近くも経つと、さすがに連発と闇の間隔が、長くなってきた。
隣の老夫婦は、その終焉を見ることに不安を感じたのか、早々に帰ってしまった。
潮の香りを含んだ、ねっとり体にまとわりつくような熱風が吹いてきた。
母親に抱かれて大人しく花火を見ていた赤ちゃんは敏感なのか、ぐずりだした。
泣き止まない赤ちゃんの声と嫌な風が、不快に感じてきたので、私は帰りたくなってきた。
さすがに、迷惑だと思ったのか、赤ちゃんに気を使ったのか,赤ちゃんの泣き声の余韻を残しながら帰ってしまった。
私たち二人きりになってしまった。
連発のあとに彼女の顔を窺った。
香田美月は、一心にビルの間の闇を見続けていた。
よく見ると、暗闇を見ているはずの彼女の瞳には、キラキラと輝く花火が映っていた。
「まだ終わりじゃないですよね」
「これでもかと言うほどの連発があって終わるから、まだ終わりじゃないよ」
「私、最後まで見て良いですか」
「いいよ」
「何か見えるのですか?」
突然、声を掛けられた。
声をかけてきたのは、最新のジョギングウエアーに身を包んだ、50代半ばだろうか、大柄で腹のつき出た男だった。
「淀川の花火大会が、ここから見えるのです」
「そうですか、花火が見えるのですか。今年、単身赴任で大阪に来たのですけど、花火と言えば隅田川ですよね。思い出すなあ。私も、ご主人みたいに父娘で見に行きたいなあ」
その男は、ビルの隙間に見える花火を見たが、あまり興味を示さずに、歩いているのか、走っているのかわからないほどのゆっくりした速度で行ってしまった。
やっぱり、他人から見ると父娘に見えるのか。
香田美月の横顔を見た。
彼女の花火を映し出した輝いた瞳。
やっぱり、美しい。
私は、彼女の美しい瞳と裏腹に、体にまとわりつくような湿った生暖かい空気に、何か得体のしれない不安なものを感じるのだった。
妻子がいるのに、自分の娘と変わらない同じ会社の若い女性と二人きりで、町はずれの川辺で花火を見ている。
それを映し出す彼女の瞳に美しさを感じる。
もうしばらくで、花火は終わる。
やがて訪れる闇。
悪魔の誘いのような湿った生暖かい風。
腹の奥から湧き上げってくる黒い塊が増長してくることを恐れていた。
それとは裏腹に、出かける前に見た鏡に映し出された自分の老いぼれた姿。
名古屋で診察を受けた時に見せた若い医師の思いつめたような暗い表情。
それらが混在して、腹の奥で蠢きあうのだ。
すべてが不安なのだ。
このまま時が止まって欲しい。
いつまでも彼女の瞳に映る花火を見ていたい。
いつまでも、いつまでも・・・
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