短編小説『わたしを包んでくれる人』
部屋の中に、あのお父さんの懐かしい匂いが満ちてきた。
ワタシは今、すごく幸せを感じる。
いつも相手をしてくれている観葉植物たちは、今日一日ベランダに出して熱い思いをさせて、ごめんなさい。今夜だけは我慢してね。
背中に、オトーサンの春の日差しのような温かい視線を感じる。誰かに料理を作ってあげるのは初めて。人に作ってあげる料理ってこれ程楽しいことだとは思わなかった。自分が食べるだけではなくて、人のためにする事がこれ程心を浮き浮きさせるとは思わなかった。
「香田さん、歌うまいね」
オトーサンの声に驚いた。
ワタシ、いつもの通りに歌っていたんだ。いつも時間を計る為に歌っていたのを聞かれてしまった。聞かれてしまったといわれても、いつものように歌っていたのでしょうがない。
勤めている会社の貴島支社長を部屋に招いて食事を作っている状況をすっかり忘れてしまっていた。
ワタシの頭の中には、お父さんが生きていてくれて、ワタシの作った料理を二人で仲良く食事が出来たら楽しかっただろうなみたいなことしか考えてなかった。
お父さんが後ろにいて温かく見守ってくれているような気持でいた。
本当にリラックスしていた。いや、いつもより浮き浮きしていたんだ。だからいつものように歌が出てしまったんだ。
振り返って、オトーサンを見た。小さなテーブルに敷かれた生成り色のリネンのテーブルクロスのしわを一生懸命に伸ばそうとしながらきゅうくつそうにパイプ椅子に座っているオトーサンと目が合った。
言葉を交わした。
オトーサンの目を見ているとなんだか心が安らぐ。会社で見かける貴島支社長ではなく、お父さんでもない。年の差のある異性でもなく、親族でもない。血のつながりよりも、もっと深いところで繫がっているにも関わらず、ワタシの周りの世界を全て包んでくれているような遠くにいて大きな存在。
ワタシの体の奥に長年潜んでいた、わだかまりで出来た黒いかたまりが、ゆっくりと溶け始めてきているのが分かる。
「・・・・・・歌を聴きながら料理を作ってもらうなんて最高の贅沢だよ。是非続けてください」
私、何だか嬉しくなってきた。
朝日が差し込んできて、小鳥のさえずりが聞こえてきた。人に何かを施してあげる幸せ。誰かに温かく見守られているという幸せ。それだけで十分なのに歌まで褒められるなんて、これ以上の喜びはない。
知らず知らずに涙がこぼれてきた。
涙が頬に伝わった。こんなに熱い涙は初めて。今は、頬の涙のぬくもりを感じていたい。春、春、春、春がやってきた。このワタシにも、春がやってきた。
地下鉄の中で、オトーサンに声をかけて良かった。別れ際に食事を作ってあげるって言いだして良かった。少しの勇気さえあれば、こんなに大きな幸せが来るなんて。
小さくても一歩前に進むだけでいい。なぜか、高校生の時に、ステージの真ん中で涙を浮かべて歌えなくなっていたヤマギシ君を思い出した。
今なにも時間を計るものは無いけれど、またあの歌を歌おう。
私自身に聞かせるために。
♬夕暮れ
色あせる街並み
光りを失ってゆく街に
窓に灯りだす明かりは
私には眩しすぎる
涙でかすむ
頬をつたう涙の
そのぬくもりが欲しい
あなたは何処へいってしまったの
あなたの思い出だけを
追いかけるのは
辛すぎる
あなたが好きだった
言葉にならないほどに
あなたが好きだった
身体が震える程に
あなたが好きだった
あなたが好きだった
言葉にならないほどに
あなたが好きだった
身体が震える程に
もし、また会えたのなら
「ごめんなさい」と言う
そして「ありがとう」
そして「ありがとう」
そして「ありがとう」