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短編小説『時代の進化によって人間が陥ってしまう罠』

権現様(徳川家康)の生前から最も信頼を得ておられました大工棟梁の中川正清様の堀川丸太町のお屋敷に、主人は中井三日と開けずに行くようになりました。朝の早くから、夜の遅くまでいっておりました。

帰った翌日は、朝一番から、棟梁らを集めて、会合をしてはります。

それが、午前中に終わると、昼からはそれぞれの棟梁が自分の部下に向かって、話し合いをしています。

私は、新しい取り組みに一丸となっている姿に心を打たれました。

これからの大工と言うものは、鋸(のこぎり)で木を伐り、鉋(かんな)で木を削るだけでは、いけないように思います。

しかし、昔ながらの大棟梁の家に生まれ育った娘の性分でしょうか、

「今時の大工は、よろしいですねえ。一日の半分は、お座敷でお仕事が出来るのですから。私の父上がそんな姿を見たら、さぞ仰天するでしょう」

言わなくてもいいのに、そうしなければならない状況を分かっておりながら敢えて、そんないけずを言うてしまいます。

棟梁たちはそれを聞くと、皆嫌な顔をします。

主人は、私の本心を知っているだけに素知らぬ顔をします。

ただ、甚五郎だけは我関せずで、目を輝かせて、常に話し合いの中心にいます。

普段は、滅多に口を開かない甚五郎ですが、そんな時は、何かにとりつかれたように議論をしているのです。

そして、二尺はあろうかと言うほどの言うほどの、例の規矩扇子(きくせんす)を大事そうに抱えているのです。

聞くところによれば、書き写しは、不許可であり、仮に許可が下りても、その精密な目盛りを正確に写し取ることが出来ないであろうと言われた規矩扇子を、甚五郎は中井正清様に直談判して許可をもらい、三日三晩不眠不休で写し取ったらしいのです。

それには、さすがの中井様も、腰を抜かすほど驚かれたそうです。

主人が言うには、彫り物をするように、両手を同時に使いながら、書き写していったそうです。両手に筆を持って、左右の手を別々に動かして、書いてゆくものですから、二人がかりで書き写しているのと同じようです。その上に、休憩を一切取らずに書き進めるものですから、普通の人の何倍もの速さで書き写したそうです。

とてもやないけど、人間業でないそうで、中井家に集まったものすべてが、驚きの声を上げたそうです。

私も初めて目にする規矩扇子ですが、扇子のように扇方になっていなくて、切り離された細長い屏風が糸でそれぞれを結んであって、南京玉すだれのように開いたり閉じたりして使うものやそうです。

甚五郎が得意げに、開いたり閉じたりしているものですから、思わず声を掛けて見せてもらいました。

普通の物差しのように目盛りが入っているだけです。

間が空いた目盛りがあったり目のつまった目盛りがあったりして、期待していたものと大違いでした。

どうして使うのかと尋ねると、易師がやるように勿体ぶって、開いたり閉じたりを始めました。

それをしながら甚五郎は、何やら説明を始めました。一生懸命に説明をしてくれているのですが、何を話しているのか、さっぱり意味は分かりません。

後で主人に聞いてみると、規矩扇子があると、敷地の中に建物を建てる時に、柱が何本必要であるか、垂木の数や瓦の枚数まで分かるそうなのです。

掛け算や割り算が瞬時にできる道具やそうです。

今までは、長年の勘と経験で、数を割り出したのですが、規矩扇子の使い方を覚えれば、大工見習いの小僧にでも、難しい計算がすぐに出来るそうなのです。

何と便利なものが出来たのでしょう。

しかし、便利になったとは言え、大工が昼日中に座敷で、顔を突き合わせて話し合いをしているのはいただけないように思えたのです。

世の中が変わってきたのは分かりますが、大工と言うものは、日々の地道な研鑽を積んで仕事を体で覚えてゆくものではないでしょうか。

私は、そんな気がしました。

私の父が生きていてこんな姿を見れば、激怒したでしょう。

そして、それらに頼らなければいけなくなった世の中を嘆いたことでしょう。

主人も、地道に修行をして、たたき上げで、大棟梁にまでなった人間ですから、私以上に、変わって行く世の中を案じているのではないないのでしょうか。

口には一切出しませんが、主人の悩んでいることが手に取るように分かります。

そしてその時、何か嫌な予感がしたのです。

今になって思うのですが、あの時、もっと注意をしていればよかったのでした。このような結果になることはなかったのです。悔やまれます。

久事方奉行の五味様の奥様のお幸(こう)様には、本当に申し訳ないことになってしまいました。

悔やむ気持ちでなりません。

計算で何事も分かってしまう時代になってしまったゆえに、人間性の奥に潜む悪魔の存在が見えなくなってしまったのです。

世の中が、人間が、すべて間違った方向に進んで予兆だったのです。

まさか自分たちが、陥ってしまうとは思いもよりませんでした。


つづく


短編小説『主人を悩ましているこの時代の風潮が憎いのです』|大河内健志 (note.com)


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