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短編小説『お父さんが死んだ』

玄関のドアを開けると、お父さんがうつむいて熱心に黒い革靴を磨いていた。

「ただいま!」

お父さんは、我に返ったように振り返った。

記憶を失った者が、電気ショックで突然、記憶を取り戻したように。

その表情は、無実の少女が突然、裁判官によって死刑を宣告された時のように、驚きと戸惑いに満ち溢れ、やがて悲しみ変わって行くように変化した。

「美月、おおきくなったなあ」

やっぱりお父さんは、幼い頃の私しか見ていない。目の前にいる現実の私に戸惑っているように感じた。

「・・・・・・」

「ごめんな。身体の調子を崩しちゃって、しばらく会社休んでいたんだ。また、明日から会社に行くよ。もう大丈夫、大丈夫」

その声は弱々しく独り言のように聞こえた。

また、うつむいて黒い革靴を磨き始めた。

その姿は上官に無理やり命じられて、銃を磨かされている少年兵の姿に似ていた。

何だか可哀想なお父さん。

でも、その臭いだけは、耐えられない。

「そこ通れないの、どけてくれる?」

臭いに負けて、思わず怒鳴るように行ってしまった。

お父さんは、うなだれたまま上り口を開けた。

お父さんの脇をすり抜けた。

その時、一瞬だけだけど、お父さんの臭いの中に、幼いころに漂っていた懐かしい匂いが混じっていた。

ほんの一瞬だけだったので、そんな気がしただけなのかもしれない。

振り切るようにその場を去ると、後ろでお父さんの声がした。

声は音を発しないで、心に感じた。

「ミツキ、ミツキ、ミツキ」

それは、幼い頃岡山のおばあちゃんが聞いた、広島で原爆にあって岡山まで逃げてきた人が言っていた話。

焼けただれた人が最後に「水をくれ、水をくれ」と言って亡くなっていった。

その「水をくれ」に似ていた。

「ミツオクレ、ミツオクレ、ミツオクレ」

それは、いつまでも私の中で私の中で響いた。

今でもそう。

それが、お父さんが最後に残してくれた言葉。

声にならない叫び。

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大河内健志
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