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短編小説『龍馬、斬られる』

望月弥太郎が、こいつらによって無残に切り刻まれたのだ。

望月はもう帰ってこないのだ。

あの望月はいない。

もう夜明けが近いというのに、彼は永遠の夜に閉ざされたままだ。

藤堂平助の眉間の醜い傷は、望月の恨みの証だ。

あろうことか、いま望月が私に恨みを晴らして下さいと哀願している。

龍馬の目には、知らず知らずに涙が溢れてきた。

零れ落ちた涙が、心の傷からにじみ出た血液のように畳を濡らしてゆく。

思わず藤堂の額の傷に拳銃の照準を合わせた。

わしが打つのではない、望月や池田屋で討たれた者の恨みが、引き金を引かせるのだ。

わしではない。わしではない。

龍馬の拳銃を持った右手の人差し指に掛かり、まさに引き金をここうとした瞬間。

服部武雄が脇差を抜きざまに龍馬の右手を拳銃もろとも、刃を入れずに打ち落とした。

服部は、新選組の中でも指南役を務めるほどの剣術の達人。

太刀の居合斬りは出来るが、脇差の居合斬りを出来るものは少ない。

服部は、普段より二刀での居合斬りを得意としていたので、それが出来た。

ましてや斬る寸前のところで、刃筋を変えて、刃を立てずに当てる斬り方は、余程修行を積まないとできない技である。

「龍馬は、絶対に斬るな」

その命令を、忠実に守ったのである。

打ち落とすはずの拳銃が、龍馬の手を離れる寸前で火鉢の淵に当たって、火を噴いた。

「バン」

火鉢全体が爆発したように低く重い大きな音を上げた。

それはまるで大砲を打ったように近江屋全体を震わせて通りを駆け巡った。

「何だ」

近江屋の軒先で控えていた新選組大石鍬次郎は、その音を聞くと、思わず単身で近江屋に土足のまま乗り込んで二階へ急行する。

硝煙の匂いが混じった灰が、部屋中に立ち込めた。

天井から、バラバラと煤が降ってくる。

お互いに顔が見えない位に煙った。

行灯の橙色の光だけが不気味に揺れる。

「藤堂さん、中岡慎太郎を連れ出すぞ」

服部が声をかけた瞬間、奥の部屋から谷干城と田中光顕が脇差の柄に手をかけ、今にも抜かんばかりに駈け出してきた。

藤堂と服部も脇差の鯉口を切って、待ち構える。

その時、後ろから龍馬の用心棒の藤吉が、服部を羽交い絞めにする。

服部は、柔術の心得はあるが、このような強烈な羽交い絞めをされたのは初めてである。

藤吉の分厚い体を上から、覆いつくすように締め上げる。

身動きどころか息も出来ない。

首の骨が、軋むような音を立てる。

それを見た谷と田中は、その脇をすり抜けようとする。

「手向かい致すな」

藤堂が割って入って、それを制止する。

「抜けば、斬るぞ」

日ごろの歌舞伎役者から抜け出てきたような若武者とは一転、鬼の形相。

額の傷が凄みを聞かせる。

二人は金縛りにあったように動けない。

火鉢の灰を頭からかぶった龍馬は、一瞬何が起こったのか理解できない。

炭の火の粉もはねたようで、髪の毛の焦げた匂いがする。

目が明かない。

音が聞こえない。

辺りは騒然としているのに、沈黙の世界である。

先程流していた涙のおかげで、闇が溶け出すように徐々に視界が蘇ってくる。

顔を袖で拭おうとしたが右手が焼けるように熱い。

そして、重くて手が上がらない。

その右手を見ると、拳銃を握ったままになっている。

右手の指を砕かれたらしく大きく張れあがって、自由が利かない。

拳銃は龍馬のぶざまな右手に拳銃がぶら下がったままになっている。

立ち上がろうとするが、右手を支えに出来ない上に、腰が抜けたものか立ち上がることが出来ない。

「中岡、俺は手をやられた。起こしてくれるか」

左手だけで這うようにして、中岡慎太郎にじり寄る。

あろうことか、中岡は仰向けにひっくり返り、胸から血が噴き出している。

苦しそうな呼吸だけが聞こえる。

龍馬は、悟った。

自分が藤堂を撃とうとした弾が、右手もろとも服部に斬られたために、狙いがそれて中岡の胸に当たってしまった。

龍馬は、悔やんだ。

同志を拳銃で撃ってしまったことを。

しかもそれが中岡慎太郎であることを。

咄嗟にこのままでは生きて行けないと思った。

腹を切るしかない。

脇差がない。

中岡に貸していたのを思い出した。

中岡が差していた自分の脇差を引き抜こうとするが、左手だけでは上手くゆかない。

仕方なしに、左手だけでそのまま刀身を抜いた。

そして、中岡の血で濡れている柄を逆手に持ち替えて、自分の腹に突き立てる。

その瞬間、今まで瀕死の状態であった中岡が、龍馬の左手を急に掴んだ。

「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」

何処かで聞いたことがある言葉。

そうだ、三吉慎蔵から聞いた言葉だ。

寺田屋から逃げる途中、もう駄目だと観念して腹を切ろうとした時に、三吉が言った言葉だ。

よし、あの時のように、力ある限り逃げよう。

あの時のように屋根伝いに逃げよう。

あの時はお龍がいた、三吉慎蔵がいた。

今は誰もいない。

恐怖よりも、孤独に胸が締め付けられた。

龍馬は、左手に持った抜き身の脇差のままだけで、はいつくばって窓の方に向かいだした。

「リョウマサン、マダシヌナ、ユメガアルハズ、シヌナ、ユメユメ、ユメヲカナエヨ、マダシヌナ」

その言葉が、頭の中でぐるぐる回り出す。

「オレには、夢がある。まだ死ぬわけにはいかない」

             つつく

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大河内健志
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