短編小説『輝きを失った黒い革靴』
玄関のドアを開けると、いきなりお父さんがいた。
「ただいま!」
うつむいて靴を磨いているお父さんは驚いた。
記憶を失った者が、電気ショックで突然、記憶を取り戻したように。
その表情は、無実の少女が突然、裁判官によって死刑を宣告された時のように、驚きと戸惑いに満ち溢れ、やがて悲しみ変わって行くように変化した。
「おおきくなったなあ」
「・・・・・・」
「ごめんな。身体の調子を崩しちゃって、しばらく会社休んでいたんだ。また、明日から会社に行くよ。もう大丈夫、大丈夫」
お父さんの声は、響かなくて弱々しかった。
また、うつむいて黒い革靴を磨き始めた。
その姿は、幼いころの私の自転車のサドルを調節していた時の姿ではなくて、上官に無理やり命じられて、銃を磨かされている少年兵の姿に似ていた。
何だか可哀想なお父さん。
でも、その臭いだけは、耐えられない。
「そこ通れないの、どけてくれる?」
臭いに負けて、思わず怒鳴るように行ってしまった。
お父さんは、うなだれたまま上り口を開けた。
お父さんの脇をすり抜けた。
その時、一瞬だけだけど、お父さんの臭いの中に、幼いころに漂っていた懐かしい匂いが混じっていた。
ほんの一瞬だけだったので、そんな気がしただけなのかもしれない。
振り切るようにその場を去ると、後ろでお父さんの声がした。
声は音を発しないで、心に感じた。
「ミツキ、ミツキ、ミツキ」
それは、幼い頃お父さんとキャッチボールをしている時のお父さんの声だった。
それから一年間ほど、あのピカピカに磨かれた黒い革靴は、見なかった。
朝、学校に行くときは、もうなかった。
朝早く出て、夜遅くに帰ってくるようだった。
お父さんは、閉園後、観客が誰もいなくなった動物園で、眠りを覚ます夜行性の動物。
誰の目にも触れない闇の中でのみ、生きられないきもの。
その存在は、悪臭を残すことで、かろうじて認知される。
そんな暮らしが続いた。
最後に、あの黒い革靴を見たのは、高校の入学式の朝だった。
新しい制服を着て、玄関で靴を履こうとしていた時に、それはあった。
お父さんの黒い革靴とまだ履いていない新品のHARUTAの靴ときれいに並んでいた。
それは買った時よりもさらに光を帯びていた。
お父さんが磨いてくれた?
一生懸命に、私の為に磨いてくれたの?
ガラスで出来た靴のように、靴全体が光輝いていた。
それに比べて、お父さんの靴は、疲れたようにくたびれていた。
それは、幼いころに見たことのある、輝いていた黒い革靴ではなかった。
手入れは行き届いているが、くすんでいた。
もはや光を発していなかった。
お父さんは、どうして私の靴だけを磨いて、自分の靴は磨かなかったのだろう。
お父さんのくすんだ靴を見て嫌な予感がした。
そして、その予感は当たった。
入学式の途中に、呼び出された。
お父さんが救急車で病院に搬送されたという。
急いで病院に駆け付けた。
遅かった。
心筋梗塞で息を引き取った後だった。
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