小次郎の知られざる過去(『宮本武蔵はこう戦った』より)
見る間に試合が行われる島に近づいてきた。思っていたよりそれは小さく、周囲を見渡すには充分であり、それはまるで大きな川に出来た中洲のようであった。にわか作りの桟橋には、幾人かの武士が集まり、手招きをして大声で何やら叫んでいる。
小次郎らしき人影は、そこから少し離れたところに設けられた紅白に仕切られた試合場の近くで、桟敷に腰を下ろしている。
陣羽織から腹や脇の肉がはみ出しているでっぷりとした体格と背中に背負っている太刀を見るとすぐにそれと分かる。
小次郎は目を閉じ、ひたすら待ち続けていた。
全ての雑念を遮断し、神経を丹田に集中させた。陽がゆっくりと動く、潮が引き、また満ちてゆく。小次郎は、何時間でも、何日でもその状態でいることが出来る。心を微塵も動かさない。長年の積み重ねた鍛錬のたまものである。
物心ついた時から、木刀を握っていた。親の顔さえ知らないのに、その木刀だけは今でも鮮明に思い出すことが出来る。ずっしりと重い、黒光りしているその木刀は、唯一の友であり、家族であった。
一族が滅びる運命であったとき、父親のお付きの武者が、命からがら、赤子であった自分を抱いて山深い寺に預けたそうだ。その時、その子が将来、武芸者として身を立てるようにと、家伝の木刀を一緒においていったと聞く。
来る日も、来る日も、その木刀を振った。誰も教えるものがなく、山伏たちが、振っているのを見様見まねで、振った。朝から、晩までただひたすらに振り続けた。山伏たちが、飛んだり跳ねたり、激しく打ち合っている傍らで、ただひたすらに、その木刀を振り続けた。
十二になった時に、住職に呼ばれ、山伏たちと一緒に稽古するように言われた。断った。一緒に稽古するには意味がないと言った。その稽古は、毎日見て知っているので、今更する意味がないと答えた。それではと、住職は山伏の中で、一番腕の立つものを選び、試合をさせた。
そのものは、脇構えを取り、いつでも掛かって来いという鷹揚なそぶりを見せた。こちらは、普段通り中段に構えて、歩みを進めた。間合いに入って、相手の木刀の先が動いた瞬間に、いつもの素振りの通り大きく振りかぶって、相手の面に向かって振り下ろした。相手の木刀がまだ、肩先にも上っていない内に、自分の木刀は、相手の鉢巻の紙一重の所で止まっていた。
もう、ここで学ぶものはないと山を下りた。親から授かった木刀一本をたよりに武者修行の旅に出た。
行く先々で、試合を申し込んだ。誰しもが、子供に負ける訳がないと応じたが、誰も負かすのものはいなかった。最初のころは近隣の村々を回っていたが、それでも相手にならなくて、街道筋の宿場を回り始めた。
やがて、海を超えた。いつしか、自分に付いて仕切る者まで現れ、勝敗に賭けが加わった。
何処へ行っても、子供相手に勝てると腕自慢のものが戦いを挑んできたが、いずれも返ってこちらが、子ども扱いし一瞬のうちに打ち負かした。
誰もが子供が大人に勝てるわけがないと相手に多く賭けたので儲けに儲けた。前髪を下ろしているにも関わらず、白柄巻きに朱塗りの鞘で拵えた二刀を差し、しゃれこうべを背中に描いた鮮やかな緋色の陣羽織を着た姿は嫌が応にも目立っていた。手には日本一と書かれた幟を手にしている。
相手も、腕自慢だけでは物足らず、城下に腰を据え、藩の指南役にまで対戦相手が及んだ。しかし、小藩ならいざ知らず、大藩ともなると、面目が保てなくなることを恐れ、幾らか包んでくれて、丁重に断られる。益々羽振りが良くなるので、京で道場でも開こうと山陽道を上って行った。
播磨の国まで入った時、戸田と名乗る武者修行の者に試合を申し込まれる。その者は木刀ではなく、薪を手にして戦いに挑んできた。あっと言う間に、間合いに入られ打ちこまれる。
負けを認めず、正面から打ちこむと、いつの間にか相手は視界から消えて、鼻先に薪の先を突き付けられていた。振り下ろした体勢から、無理やり右側にいる相手を袈裟懸けに打ちこむと、軽くいなされ、脇腹をしこたま突かれた。息が出来ずに、その場に膝から崩れ落ちた。
小次郎は、生まれて初めて負けた。
それより、戸田の弟子となる。戸田は、のちに鐘捲自斎と名乗り、一派をなす。戸田には、一から兵法の手ほどきを受ける。師は自ら創意工夫を心掛けている。最初のころは、小太刀の相手をさせられた。こちらが何度も打ちこんでも、打ち返される。どんなに早く打っても、難なく切り返し、いなされる。師はそれだけでは飽き足らず、今度は先手を打って来るようにした。
小太刀と小次郎の木刀では、当然小次郎の方が長い分だけ有利のはずだが、師は間合いはいるのが上手く、こちらが振り上げる前に打たれる。
師は言う「考えよ、儂が考えている以上に考えよ。自ら工夫するのだ。そうしないと、儂もお前も先へ進まない」
何度も、先に入られ打ちこまれるうちに、小次郎も工夫し、間合いに入られるより先に仕掛けて打ちこめるようになった。
それでもは軽く受け流されたり、いなされたりして打ち返された。さらに小次郎は、工夫を重ね打ち返さえされても、次の技を即座に出せるようになった。お互いに切磋琢磨しているうちに、師は小太刀から太刀に変えた。太刀同士では小次郎に分が悪かったので、徐々に太刀を長くしていった。しまいには、それは三尺にもなった。ようやく、先に踏み込まれて打ちこまれることだけは、防げるようになった。
最後に、師は言った。「よくぞ、ここまで工夫を積み重ねてくれた。このままで行けば、確実に儂を追い越すこととなるだろう。儂はまだまだ修行を続け、剣の奥儀とは何かを明らかにして行かなければならぬ。それゆえ、自斎と名乗り、修行に出る。小次郎、別れじゃ。小次郎は天賦の才を持っておる。しかも、それを持て余すどころか、さらに工夫を重ねようとする。その姿は、大岩が激流に逆らって上流に上がらんとするごとくである。以後、岩流と名乗り、自らの兵法を伝え、後世に名を残せ」
巌流佐々木小次郎の誕生である。