短編小説『天才佐々木小次郎の唯一の汚点』
滑空する燕が真っ二つに斬られた。
斬られた胴体は、風に吹かれた木の葉のようにひらひらと舞いながら地に堕ちた。
「恐ろしい」
武蔵は、全身が金縛りにあったように強張って、身動きが出来なくなってしまった。
佐々木小次郎は、目の前で見た「燕返し」の技を私との試合に使うに違いない。
彼は私の太刀よりはるかに長い太刀で、遠い間合いから攻撃をしかけてくる。
相手が、遠い距離から仕掛けてこられると、こちらでは、明らかに届かないと分かっていても、今までに経験したことのない長さの太刀であることが頭に刷り込まれているので体が勝手に反応してしまう。
経験値のないものに対して、脳の指令が過剰に反応し、防衛本能が働いてしまう。咄嗟に回避行動を取ってしまうのだ。
どんなに稽古を積んでも、未知の領域に対しては、本能の方が優先されてしまう。
いかなる達人であっても、本能を押さえ込むことは出来ないのだ。
しかも、それは最初はゆっくりとした動きで始まるのである。
目の前で、取られた相手の行動のスピードは、自分の行動のスピードに自然に反映してしまう。
武道の世界では。これを「拍子が合う」という。
つまり、相手がゆっくりとした動きを見せれば、こちらもそれと同じようにゆっくりとした動きで対応してしまうのである。
「拍子が合う」分かりやすく説明すれば、目の前の人が手拍子を二度叩く時に、早く叩くと素早く反応できるが、遅く叩くとこちらの動きもゆっくりとしか反応できないということである。
体内のリズムは、周りの環境に無意識に同期してしまうということなのだ。
小次郎が最初の一振りを遠い距離から、ゆっくりと遅い速度で振りだすと、こちらもそれを見て、自然にゆっくりと太刀を出してしまう。
つられて、出した太刀は、当然届かない。あわてて、距離を詰めて、次の太刀を出そうとするが、その瞬間に、小次郎の返した太刀が己の側頭部めがけて正確に振り下ろされる。
武蔵は、想像するだけで身震いをした。
小次郎のつばめ返しは考えつくされた誰にも真似の出来ない必殺の技である。
誰よりも長い太刀で、目にも留まらない速さで正確に斬り下ろすことは非常に難しい。ましてや、飛んでいる燕を斬ることなど、無理なことである。
最初の一振りをゆっくりと斬り下ろし、その状態から身体を反転し、目にも止まらない速さで、次の太刀を出す。
しかも、正確に斬ることが出来る。
斬り下ろした状態から、体を入れ替えして素早く正確に次の太刀を出すというのは、至難の業である。
それを小次郎は、人前で難なくやって見せる。天性の才能を持ちながら、血の滲むような鍛錬をしなければ、到底出来るものではない。
それは神業である。
佐々木小次郎は天才である。
小次郎が、こちらに視線を向けたような気がした。こちらは、どうしても視線を合わすことが出来ない。顔が自然に俯いてしまう。
視線の先には、胴体を真二つにされた親燕とそれに群がっている子燕たちがいた。
なぜか、死別した母親の顔が脳裏に浮かんだ。
体の底から沸々と怒りが込み上げてきた。
火打石の飛び火が枯草に燃え移り、徐々に大きくなってゆくようにその怒りは大きくなってゆく。
もはや怒りでしか、己の体を動かす原動力はない。
武蔵は、怒りによって、ようやくその場から立ち去ることが出来た。
去り際に、燕たちから二尺ほど離れたところに半円が地面に刻まれている。
先程、技を出した際に、小次郎の太刀の鞘の先が付けた跡なのだろう。
武蔵には、それが天才小次郎の華麗なる技の唯一の汚点のように思われた。