美の代償(小説『天国へ届け、この歌を』より)
カーテンの開く音。
部屋中に満ち溢れた光で目を覚ます。
手を伸ばした。
美月はいない。
美月は、両手を拡げて窓際に立っていた。
眩しい。
銀色に光り輝いて立っていた。
「おはよう」
細かい金粉をまき散らして美月は振り向いた。
髪の毛が、朝日を吸い込んで栗色のさざなみを奏でている。
『ビィーナスの誕生』
ボッティチェッリの絵画そのものだった。
その美しさは、人間の領域を超えた神聖なものに思えた。
何処からともなく聞こえてくる小鳥のさえずりが、天使のささやきのように聞こえてくる。
美月は、遠くに行ってしまった。
目の前にいる美月は、先程まで私の腕の中にいた美月ではなかった。
私の手から離れて、遠い領域に行ってしまった。
仏師が自分の作った仏像を前にして、神に導かれたように感じて思わず手を合わしてしまうのに似ていた。
一糸まとわぬ姿で輝く美月は、美術品そのものであった。
私はずっとこのまま美月を眺めていたかった。
いや、鑑賞と言う言葉の方が適切なのかもしれない。
時が止まってしまえばいいと思った。
この瞬間が、永遠に続いて欲しかった。
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
今この瞬間が、最高の至福である。
しかし、それは時を止めることが出来ないように、やがて朽ち果てる。
偶然の至福には、運命の代償を背負わされる。
私は、取り返しのつかないようなことしてしまったような気がした。
美月の美しさに惹かれるほどに、その代償は多くなっていく。
美月が神の領域に達していくほどに、私の命が削られていく。
その時初めて、私は死というものを意識した。
私の中に巣くっている黒い塊が、あざ笑うかのように頭をもたげてくるのが分かった。
緊張する空気を携帯電話の着信音が引き裂いた。
妻の美由紀からだった。
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