短編小説『季節外れの木蓮の香り』
「貴島さん、分りますか?ここのところに黒い影が映っているでしょう。こちらが4月の検査結果です。比べて見ると、大きくなっているのが分かるでしょう」
まだ三十才前半だと思われる若い医師がモニターに映る画像を見せてくれた。
「その黒い影は、ガンですか?」
とっさにガンという言葉が出てしまった。とっさに出た自分の言葉を耳にして、私は取り返しのつかないような罪を犯したような気がした。
「貴島さん、今は先日受診されたご主人のMRIの検査報告をしているのです。この段階では、ガンと判断することは出来ません。ただ、お分かりのように膵臓に黒い影が見受けられるということだけです。そしてそれが、急速に肥大をしているということだけです。それが良性であるのか、悪性であるのか、この時点では分かりません」
裕司の体の中に、黒い塊が出来ている。
それが3か月余りで急速に倍の大きさになっているとのに、この若い医者はお昼のバラエティ番組のとぼけたコメンテイターのように飄々と答えている。
たとえそれが、ガンではなくても裕司の体の中に黒い塊が出来ていて、それが膨らんでいる。
大変なことが起こっている。
恐ろしいことが起きようとしている。
しかも、裕司は何も知らずに、大阪で単身赴任をしている。
「仮にそれがガンではなくても、体に悪いことでしょう?早くなんとかしてくださいよ」
思わず声を荒げてしまった。
人の気持ちも知らないで。
裕司という人間をベルトコンベアーに運ばれてくる機械を唯々順番に検査するように扱わないで、私は思わずその若い医者を睨め付けてしまった。
単身赴任先の大阪で人間ドックを受けた裕司は膵臓に影があるというので、名古屋に帰ってきた時に精密検査を受けた。
一か月後に検査報告をしますと言っていたのにも関わらず、一週間もしないうちに病院から連絡があって、すぐに来るように言われた。
裕司も一緒に来るように言われたけれど、仕事の都合で帰れないそうなので、私だけでもいいかと尋ねると、それでもいい、とりあえずすぐ来るようにと言われてきた結果がこの応対なのだ。
私の威勢に押されたのか、若い医者は、おどおどしながら、
「ガンであるかの判断は、細胞を採取して、その内容を調べて見ないと分かりません。先ずはその為の検査入院が必要になります。何時になさいますか?少しお待ちいただけますか。スケジュールを確認します」
「そんなに進行が早いのなら、すぐにでもして下さい」
「申し訳ないですが、混み合っておりましてお盆明けの8月20日の月曜日か23日の木曜日になりますが」
どうして?急がないとだめと言いながらも一か月も待たないとだめなの?
その間に増々黒い塊が多くなって行くというのに。もしものことがあったらどうするの?もしもの事?考えるだけでもぞっとする。
でも、もしもの事。思いたくない考えたくない。裕司がいなくなるなんて想像もしたくない。
その時、携帯電話が鳴った。
こんな時にと思ったが、よく見ると裕司からだった。
何でこんな時に。
あの人、普段はぼうっとしている癖に変なところで勘が効く。
感づかれたのかな?
どうしよう。迷った。
でも、ここ出なかったら後悔すると思った。
出ようっとした瞬間に切れた。
何だろうと、思う暇もなしにメールが来た。
「スターダストレビューのコンサートがあるけど行く?」
ほっとした。
何も知らないのに、優しさを見せる裕司がいじらしくて、思わず涙が出てしまった。
診察室で医者の説明を受けているのにもかかわらず、思わず携帯電話をかけた。
裕司の声だ。
涙が溢れて、頬を伝った。
息が詰まって、声が出ない。
「あなた、今大変なことになっているのよ。身体の中に出来た黒い塊がどんどん大きくなってきているのよ」
そんな時に、私の好きなスタートレビューなんて、タイミングが良すぎる。
私の荒れ狂う心の中に、彼の優しさの塊が直接投げ込まれた。
彼は、昔からそうだった。
付き合いだした頃からそうだった。
普段から、無口でぶっきらぼうの癖に、思いがけない時に優しさの塊を私の心の中に、直球で投げ込んでくる。
そこに惹かれた。
裕司の好きなところ。
でも、今はそれを気付かれないようにしよう。
快活を装った。
良かった、コンサートは検査がある週の前の週末だった。
「分かった。日帰りになるけど行くわ」
裕司とのやり取りを、無関心を装いながらパソコンに映る裕司の画像を熱心に見つめる若い医者の横顔が目に入った。
付き合いだした頃は、これくらいの若さだったなと思った。
そういえば裕司とよく似ている耳の形。
鼻の奥がツンとして、何処かしら季節外れの木蓮の花の香りが漂ってきたような気がした。