父のこと
父は個性的で、真面目で、純粋な人だと思う。
競馬、お酒、子煩悩。
小さな島の集落で8人兄弟の末っ子として育ち、勉強ができたから本島の大学まで出て、大都会東京で大きめの企業に就職。
経験を積むほどに
「こうした方が面白い」
「こうすれば皆が幸せ」
「こうすれば無駄な時間や金をかけずに良いものを提供できる」
それらをよく考えて仕事をする人だった。
自分の得がなくても、人のために自分を活かすことが大好きな人。私はそう思っている。
父の最初の結婚は、23歳ごろ。
秋田生まれの美人妻との間に男の子を授かって、島育ちで子煩悩な父は家族を養っていきたい一心でとにかく一所懸命だったらしい。
結局、最初の奥さんとはうまくいかなくて彼氏ができた奥さんは出ていき、父は離婚して小さな息子は父が引き取ったのだった。
お金を稼ぐことに集中するため、東京で働き続けた。初めは、男手ひとつで息子と二人暮らしだったらしい。
片付けや家のことに無頓着な父は、まともな環境で子育てとはいかなかったようだけど、それは本人にも自覚はあったらしい。
都内での仕事は営業続きで、酒の付き合いなしには稼げない。
そのことを、父もよく分かっていた。
息子が1人で待つ家に、夜遅く帰る日々。
2週間ほどしてから、これでは健全に育てられないし仕事も思う存分できないからと、学校の面倒をみてもらったり世話してもらうため、地方の親族に息子を預けて働きはじめた。
いつまでも親子が離れて暮らすのは良くないからと、息子が中学に上がる前には地方に帰った。
大都会から地方に帰ると、思うような条件の仕事は当時から相変わらずなくて、しようがないので自分で会社を作ったり、仲間の会社を儲からせたりして日銭を稼いだ。
息子が中3になった頃には、「親父、再婚したら?」と言った息子の一言で今の妻(私の母でもある)と見合いをする。
息子が認めた継母ならば、と再婚したらしい。
その間、自分たちで立ち上げた会社は業績不振だったから、得意だった株式市場を読んで多くの社長たちを儲からせていたらしい。
時には経済新聞でコラムを書くこともあったらしいが、自分は対して取り分ももらわなかったと話していたのを聞いたことがある。
そうやって地方で付き合いを重ねるには、どうしても酒の力が必要だった。
再婚した母との間に私が生まれてからは、大きな家に住みながらも酒を飲んでいた。
酒を飲まずに帰る日はなかったらしい。
毎晩飲み歩き、時々は近所の人から道端で倒れてるよと連絡がきたことも少なくない。
そんな日は、母は小さな私をおんぶして飲み屋街までしぶしぶ迎えに行ったそうだ。
会社を代表していたほどの父は、人が良くて、だんだん人に利用されるようになって私が育っていくにつれ貧乏になっていった。
今でも記憶にあるのは、小さなワンルームに家族3人で寝転んだこと。
風呂場のすぐ横が台所で、小さなアンテナ付きのリモコンがないテレビがあった。
この記憶のころの私は、まだ小さかった。
この頃から母は、家計を助けるために私を預けて美容師に復帰し、また働き始めた。
そして私が小学校に上がる頃、小学校が近いところがいいからと、今の私の実家である家賃の安い県営住宅に3人で移り住んだ。
父は、あいかわらず毎晩毎晩酒を飲んでいた。
付き合いがあってもなくても、人が来た時も、来ない日も、お祝いがあるときも、ない時も、毎晩毎晩飲んでいた。
時々、私も父に連れられて父の仲間に会って居酒屋でごはんを食べたと思う。
誰かと楽しそうに酒を飲む父は嫌いじゃなかったけど、酔っ払って酒臭い父がだらしなく私に話しかけてくるのは子ども心に落ち着かなかった。
そのうち、父は仕事をしたり、しなかったりする時期が出てきて母と喧嘩が絶えなくなった。
家計がいっこうによくならず、新しく仕事をはじめようとまた借金をしたので、もともと真面目で投資の知識や経験がない母は、不安がってもっと怒った。
母も気が強く、頭は良くないけどよく働く人だからコツコツ働いてほしい母と、まとめて一気に稼ぎたい父は、衝突してばかりだった。
学校から帰ると両親が大声で怒鳴り合う光景が怖くて、当時の父は体もがっちりしていたし、女で体の小さな母はそのうち酔った勢いで父に殺されるのではないかと毎晩恐ろしかった。
酒を飲んで怒鳴る父は大嫌いだった。
母が作った食事にケチをつけて喧嘩になり、酔った父は食器棚を倒したり、皿や鍋を投げつけることもあった。
酔って怒り散らす父は、別人だった。
小学生の私は、台所の刃物やハサミ、父が母を傷つけたり危なそうにみえるもの全てを自分の部屋に持ち出して、引きこもった。
恐ろしい形相で怒鳴る父に、母を殺されたらどうしようという恐怖からだった。
こういうとき、部屋から出たらいけなかった。
まともに両親のあんな姿を見たら、辛くて苦しくて息ができなかった。
耳を塞いで、両親の喧嘩が早く終わって私を囲んで美味しいご飯を食べる場面を一所懸命に想像しながら、不安なまま眠った。
明日は仲直りしている、そう願って寝た。
不安なまま子ども時代を過ごした私は、小学五年生くらいまで、おねしょが治らなかった。
学校に行ってる間、父と母が別れてどっちかがいなくなるのはすごく怖かった。
本当はそうなった方が平和だったのかもしれないのに、仲の悪い両親でもいてくれたほうがいいと願ってしまった。
それでも、酔ってない父は私にだけはそれなりに優しかったし、子煩悩ないいお父さんだった。
今思えばそれが父の本当の姿だと信じたい。
時々、他のお父さんとは違うことを言ったり、したりする変な父だけど私のことが可愛いってことだけはよく伝わっていたのだった。
母は、やがて私を通して父と会話するようになっていった。2人きりになると怒鳴り合うから疲れたのだろう。
娘が離婚すればと言っても、絶対に母は別れなかった。あんたのためと言い続けた。
母がお金のことを言うと、酒を飲んでても飲んでなくても父はすぐ嫌な顔をして怒るので、どうしても足りないお金をもらうときや学校の給食費、学級費をもらいに行くのは私の仕事だった。
私のことはかわいいから、怪訝な顔をしてもちゃんと必要な分はなんとかくれるのだった。
そんな環境で育つうちに、私は1人で金を稼げるようになりたいと強く願うようになった。
中学、高校と進むうちに、この親をあてにしてはいけないと強く思うようになった。
普通の親がいる、友達の親が羨ましかった。
●●ちゃんのお母さん、お父さん。
私も家族にしてくれないかなと時々願った。
やがて奨学金のもらえる看護学校を卒業し、社会人になった途端に煩わしい実家を出た。
母と父から離れた生活は、どこか安心感があった。自分1人で、誰の心配もせず稼ぐ力を身につけたんだと給料日だけは自分のことを認めてあげられたし、給料日だけが私のアイデンティティだった。
私は32歳になり、9年の一人暮らしのあいだ絶対に実家に帰らなかった。
看護師の仕事を通して、精神科を経験した時、「アルコール依存症」と言う病気を知った。
そうか、父は病気だったんだ…
元を辿れば、納得できることがたくさんあった。
治療を通して、回復していく患者さんや回復せずに病んでいく家族、大量のアルコール摂取で身体を壊して亡くなる患者さんなど多くの人に出会った。
同時に自分ごととして捉えると、この家族をどうして良いか分からなくなった。
5年前、私は調子を崩して自分と向き合った。
2年間はそのあとも1人で暮らし、小さな頃の自分を癒すため、また家族と向き合うため勇気を出してまた実家に帰った。
母は相変わらず酒なしには生きられない父と暮らしていて、働いている。
父は、なんとかやっていた自営業を畳んでもう70代の老人になっていた。
娘が帰ってきて、母はものすごく喜んだ。
父との暮らしには楽しみがもうないらしい。
まだ私はそれからも実家にいて、親の心配をしながら看護師をして、このままこの家族の行く末を案じながら今も生きている。
自分の人生は、母の人生は、取り戻せるのか分からない。
父の人生は、どう転ぶのか分からない。
父が、父自身の良さを活かしながらなるべく幸せに生きていけますようにと願いながら、結局わたしはまだ何もせずにいる。
何が起こってからでないと治療に繋げられないのは、アルコール依存症の怖いところでもある。
今日、父は街の病院に行った帰りに酒を飲んで道端で潰れていたところを警察に保護された。
どれくらい飲んだのか、いくら使ったのか分からないけど、まだ私は怒りが込み上がってきて苦しかった。
支えたいんじゃない。
お金を稼いで欲しいわけじゃない。
私のお金を使わないでほしいわけじゃない。
ただ孤独に老後を生きてほしくない。
私がすべきことは、なんなのか。
私がしないで、父がやるべきことはなんなのか。
また考えないといけないと思った。
受け入れるために理解したい。
理解して、この父を見届けたい。
母と父、そして自分の人生に安らぎと平穏がほしいだけだ。