ミュージカル「ラブ・ネバー・ダイ」 結局愛しているのは音楽
※重大なネタバレをしているのでご注意ください。
日生劇場で「ラブ・ネバー・ダイ」を観た。楽しみにはしていたものの、鑑賞の動機は不純で、しかし観てよかったと思える作品だった。
前提
前提として、私はロイドウェバー版「オペラ座の怪人」のファンである。だからこそ、その続編である「ラブネバ」については複雑な感情を抱いていた。イギリスでの初演時に批評家からの評価が低かったことやあらすじを読んだだけでも明らかに蛇足ではないかと思ってしまうような内容が主な懸念点だった。
ストーリーについて事前に知っていたことは、ファントムは実は死んでいなかったということ、クリスティーヌはファントムと恋愛関係にあり子供を生んだこと、ラウルの変貌ぶり、ジリー親子のファントムへの愛情である。「オペラ座〜」ファンとしては、自分の好きな作品のイメージを大きく損ねるような続編の存在に怯えつつ、しかし観ないままに批判することもできないだろうということで腹を括って観劇することにした。
ファントムが実は生きていたことについては、さもありなんという印象。「オペラ座の怪人」のラストは、クリスティーヌと別れたファントムが椅子に腰掛けた後に姿を消し、そこにやってきたメグが残されたマスクだけを手にしてファントムの消失を印象づけるという演出。ファントムが消えたことは明らかでも、死んだことは示されない。だから生きていたと言われてもさほど驚かないのだが、少し矛盾が感じられるのは「ラブネバ」でメグとジリーが「私たちがファントムを逃してあげた」と言っていること。ということは、メグがマスクを手にして「あの人は消えた」という仕草をしていたあの演出は我々観客が見せられた集団幻想だったのか、それともその場面の後にジリー親子はファントムと邂逅するのか。色々と想像をめぐらせられる面白い場面ではある。しかし、今回の焦点はそこよりも、「ラブネバ」においてクリスティーヌがファントムに向ける愛情、ジリー親子がファントムに向ける愛情は一体何なのか?という問題だ。
問題の構図
これは、私が「ラブネバ」観劇前に感じていたことで、ネット上でもしばしば見かける意見なのだが、父親的かつ師匠的存在であるファントムがクリスティーヌを性的に見ている+クリスティーヌもそれに応えているという構図は、かなり受け入れ難いものがある。そもそも、ファントムが「消えた」のはクリスティーヌからのキスという形で表された愛情(「オペラ座〜」における彼女の愛情は愛というより尊敬だろう)を受け、その優しさを知るとともに、それが女性としての愛ではないことへの絶望を感じた上で身を引いたのではないかと私は考えている。つまり、ここでクリスティーヌはファントムを師以上のものとしては見ていないし、ファントムはそれを理解して消えた。だから、「ラブネバ」でファントムとクリスティーヌが恋愛関係にあったことを知らされるのは、あまりに唐突で、それが健全な関係だとは思えない。
ちなみにファントムが気持ち悪いキャラクターであるのは、すでに「オペラ座〜」で明らかであるため、その後変態的な行動をとっても想定の範囲内ではある。常に歪んだ感情を抱き、何も疑わないクリスティーヌを自室(地下)へと連れて行くのは、コンプライアンス重大違反である。だから最後ファントムが消えるのは、当然というかそうしなければいけないという当たり前の対応とも言える。
どちらかというと受け入れ難いのは、クリスティーヌやメグの描かれ方だ。どうしてクリスティーヌはファントムと肉体関係を持ったのか?そして、「オペラ座〜」ではそんな片鱗さえ見せなかった(むしろ嫌がっていた)メグもなぜファントムを愛するようになったのか。この構図は、ファントム(=中年男性)の若い女性を手に入れたいという欲望を表しているようで正直寒気がする。もはやロイドウェバー自身の性癖を披露しているのではと言ってもいいが、それは言い過ぎだろうか。ともかく、この構図が観劇前の私が最も引っかかっていた部分だった。
観劇後
観劇してみると、なんだ、クリスティーヌやメグ、そしてマダム・ジリー、彼らは誰もファントムを人間として愛していないんじゃないか、と感じた。つまり、ファントムの音楽の才能を愛しているだけなのではないか?
まず、ジリー親子。「オペラ座〜」ではマダム・ジリーがクリスティーヌ以外で唯一ファントムの味方に近い存在となっているが、地下には「行けない」と言っていることから、ファントムに大きな愛情を向けているとは思えず、持っている感情があるとすれば同情くらいかと思われる。ファントムを恐れつつも、音楽の才能は認めているのだろう。「ラブネバ」では、その同情と才能に対する期待が膨らみ、ファントムへの愛情に置き換わっている。あくまでその愛情の基盤は同情である。また、ジリー親子の会話の端々からは、ファンタズマの運営者としてファントムとともに作品を作っているというよりかは、「場所を用意してあげている」というスタンスが受け取れる。つまり、ファントムの弱みを握りつつ、その音楽の才能を手放したくないという、束縛的な感情を持っている。
メグの方は、クリスティーヌへの嫉妬から明らかになる面が大きい。ファンタズマでファントムに才能を認めてもらいたいと看板女優を務め、しかしクリスティーヌの登場でその立場が危うくなると、さらに目立ってファントムからの注目を得ようとする。
どちらも、ファントムへの愛情は持っていて、その見返りを期待しているのだろうが、ファントムを人間として(男性として)愛しているというよりかは、音楽の才能を愛し、ひいてはこちらの才能や頑張りを認めてほしいという形ではないか。ふたりともかなり才能に固執しているように見えた。
クリスティーヌについては、前半はファントムを男性として愛しているように見えたし、一時は本当にそうだったのではないかとも思う。ただ、クリスティーヌがファントムの作曲した「Love Never Dies」を歌うという場面で、彼女の本当の感情が窺えるようだった。ラウルに引き留められても、結局はファントムの願いに応じてクリスティーヌが歌うことを決意するという、ファントムへの愛情を示すような場面だが、私には何よりも歌うことへの愛情が表れている場面だと思った。「ラウルがいようと、ファントムがいようと、私は歌うことを愛し、歌う自分を愛している」という決意めいたクリスティーヌの感情である。これは、私が観劇した日のキャストが平原綾香の役作りなのかもしれない。独立した歌い手としての力を持つ人が演じるほど、その印象は強まるに違いない。「Love Never Dies」を歌っている途中に、ファントムの方を見、ラウルの方を見、それから客席に向かって自信を持って歌うという流れ、歌い終わった後にゆっくりと劇場全体に礼をする姿、これら全身から歌うことを愛する感情が溢れ出ていた。そこでは、ファントムの存在もラウルの存在もそこまで重要ではない。ファントムは師匠として大事な存在ではあるが、クリスティーヌはもはやファントムのミューズという役割から解放され、自分自身の道を歩き出した。
ついでに、ラウルと息子のグスタフについても書いておきたい。「ラブネバ」のラウルは随分落ちぶれた描かれ方をしている。借金まみれ、酒浸りなのは確かに問題だが、案外クリスティーヌを音楽の才能関係なしに人間として見つめている人はラウルだけなのではと思う。ファントムとクリスティーヌの愛をめぐって争うというのは、愛情の形がかなり違うためあまり意味をなさない争いだ。クリスティーヌはそれに気づいていたのだろうか。
グスタフは、彼もまた興味深いキャラクターだ。彼は、ファントム・クリスティーヌ間で交わされる愛情が「音楽への愛情」であるということを象徴しているような存在である。物語前半で、ファントムはグスタフの持つ才能に気づき近づくが、明らかに「オペラ座〜」でクリスティーヌに近づいた時と同じアプローチの仕方だ。グスタフの方も、ファントムに興味を持ち近づく。最後、ファントムとグスタフはお互いを親子だと認識し受け入れたが、それでもまだ互いの才能に依拠した関係にとどまっているような気がして、先が思いやられる。
「ラブネバ」の存在意義
私が考えた「ラブネバ」の伝えたいこととは、「登場人物たちがそれぞれ持つ愛は結局、音楽への愛である。そして、それは決して死ぬことがない(never dies)」ということだ。確かに、「ラブネバ」は受け取りようによっては大いなる蛇足で、粗悪な二次創作である。ただ、私が観劇した印象としては、各登場人物の感情に踏み込まなかった「オペラ座〜」(登場人物の描き込みより全体の物語の展開を優先させたのだろう)に対して、結局彼らはどんな行動原理を持っていたのかを明らかにしてくれた作品というのが強い。ということで、想像以上に楽しめた観劇体験だった。
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