広島で生まれた私が本を書きたい理由
二〇二五年、終戦から八十年を迎える。
私の故郷・広島では被爆者の数は減少しているものの、市内中心部に位置する平和記念資料館は毎日訪れる観光客たちに強烈な印象を与え続けている。
多くの罪のない人々が一瞬にして命を「奪われ」たというのは日本人の誰しもが知っている事実だけれど、日本の平和教育では、他国にいかに酷い行いを「受け」たかという部分が強調されている節があるような気がする。
反対に、アメリカ人の中には「原爆投下は正しい選択だった」と考える人が少なくないという。このデータを知った時、私はアメリカ人はなんて残酷なんだろう、と感情的に受け取ってしまった。
しかし本当にそうなのだろうか。確かに多くの人々が亡くなったという事実は重いし、広島の人々は家族や自分の体も心もボロボロに引き裂かれた。
でもアメリカにはアメリカの理由があったはずで、それならば、原爆投下についてアメリカや他の国の立場から考えてみることも大切なのではないか。そうふと思った。
私のリサーチ力が拙いだけかもしれないが、原爆投下について複数の国の視点から考察した本や論文はほとんど見つからなかった。洋書が少しあったくらい。
知りたいことがあればやるべきことを放ってでも夜通し調べてしまうような癖のある私はいてもたってもいられず、「多様性にあふれたキャンパス」と巷で言われている大学に通う現役の学生という立場を活かして、留学生を含め色々な人にそれぞれの見解を聞いてみようと思い立った。
インタビューの記録は一冊の本にまとめて出版して、彼らの考えや私の思っていることを発信したい。
もちろん、明確な意見を持っている人もいれば、私のしようとしていることをくだらないと思う人もいるだろう。戦争や平和に関するトピックなんてそんなものだ。
高校生のとき、平和公園で開催される広島市主催のイベントの責任者になり、公園内で他の実行委員とビラ配りをしていたときのことだ。
私が手渡したビラをそのままぐしゃぐしゃにして捨てていく人がいた。若いカップルの男の人のほうだった。そのとき私が感じたのは怒りでもなくショックでもなく「あ、こういうことか。」だった。
「若い世代の無関心」というニュースでよく耳にするフレーズを目の前で体現された気がした。これが無関心ということなんだ。
自分に関係がないことはくしゃっと丸めて捨てて、せっかくの情報にあふれた世界を「他人ごと」とラベルリングしてしまって、目の前の小さな画面の中の、広いようで狭い空間に夢中になってゆく。これが今の若者の姿か、そういうことか。
理想を言えば、若者全員に平和について関心を持ってもらいたい。
でもそれが不可能だとわかっているから、私は一人でも多くの人に「自分ごと」として考えてもらうために本を書こうと決めた。
出版は二、三年後の予定でまだはっきりとはしていないけれど、広島出身という立場と、現役大学生として比較的余裕のある時間、そして持って生まれたフットワークの軽さを活かして、やれるだけのことはやってみようと思う。