あれからとこれから
きっとたくさんの人の人生を変えたあの日から、もう8年で、まだ8年。
「この辺は地盤が固いから安全なんだ。」は秋田に住む母の口癖だった。
日本海中部地震の時もたいした被害はなかったという意味も含んでいる。
3.11の時も母はそのセリフを言った。
地震のあと24時間停電したので、テレビは見られなかった。叔母の家にコンセントの要らないストーブを借りに行った時にみんなで暗い部屋でラジオを聞いて、大変な地震だったようだ、と知った。3月の東北はまだ寒くて、被災した人たちは大変だろうと思った。
自分たちを「被災した人たち」に含めないぐらいには、大きめの地震が来たあと停電しただけの一日だった。
津波のニュース、原発が爆発したというニュース、繰り返される「ただちに健康に被害はありません」という言葉と、回ってくる不安になるチェーンメールと。
私が経験したことのある、聞いたことのある震災とは違っていて、なんだか落ち着かなかった。
恥ずかしながら私は電気は火力と風力で作るものだと思っていたので、「原発」というものがどういうものでどうやって電気を作っているのかも、事故が起きたらどうなるのかも知らなかった。
そこから調べて、チェルノブイリ事故のことを知り、チェルノブイリで被災した子供たちの手記を読んで泣いた。
それから、仙台に住む友人に、子供と秋田に避難してはどうかとしつこく連絡をして、
「あなたの言っていることは正しいと思うけれど、私にはできない。何年先のことよりも、今家族がバラバラになる方が怖い。」と言われ、自分が自分の正義を押し付けて友人を苦しめていることを知った。
旦那さんの実家が福島なのに、危険だなんて口にできないと彼女は言った。
あれから誰かに自分から「避難した方がいい」と言うことはなくなった。
8年という月日が経って、あんなに衝撃的だった津波の映像もくっきりはっきりとは思い出せない。
なのに、twitterで回ってきた小さな男の子の写真は妙に鮮明に覚えている。
ガラスバッジというものを首から肩に斜めにかけている小さな男の子の後ろ姿。どことなく当時の長男と背格好が似ていて、胸が詰まった。
原発を知らなかったぐらいなので当然ガラスバッジも知らず、調べて驚愕した。
どれぐらい被ばくしたのか、データを取るためのものだった。被ばく量を知るためには専門の装置が必要で、個人では知ることすらできない。一体何の、誰のためのものなのか。
その小さな子供を守るためのものとは到底思えなかった。
チェルノブイリのことを調べた時に、放射能は閉じ込めなければいけない、ということが書いてあったけど、日本の政府は大丈夫だと言った。
「応援」「絆」「復興」という言葉が飛び交い、危険ではないかと声を上げる人には「風評被害」という言葉が投げかけられた。
私は当然、原発は無くなるのだろうと思った。
管理も杜撰で、あのような事故が起きてしまっても誰も責任を取らない。
大きな事故を起こせば収束に何年かかるのかもわからなくて、未来の子供たちにも押し付けなければ成り立たないものを、残そうと思う人がいるはずがないと、無くそうとするだろうと思っていた。
結果から言うと無くならなかったし、無くならないのだろうと今は諦めてもいる。
原発はいらないなんて言うと「代替え案を出せ」という言葉が飛んでくる。
「感情論」とバカにされる。
そういうことなのだろうか?負の遺産を子供たちに押し付けることと、天秤にかけられて然るべきことがあるというの?
私たちは全員被害者なのに、被害者同士でいがみ合い罵り合う。
あのガラスバッジの男の子は、日本にいるすべての子供たちであり、大人たちでもあると思う。
8年経った今も震災は終わっていない。
原子力緊急事態宣言はまだ解除されていない。
未だ家に帰れない人たちもいる傍ら、何事もなかったように日々は過ぎていく。
あれから激動の人生だった人。特に何も変わってない人。変わらない日々を望む人。変えたいけど変えられない人。
たくさんの人の人生を、癒えない哀しみを飲み込んで、これからも時間はただ過ぎて行く。
過ぎて行った時間は戻せない。過去も変わらない。
なるべく前を向いて、でもたまに横を見たり後ろを覗き見たりしながら歩いて行くしかなくて。
せめて、いつか振り返った時に、あの時は大変だったけどと、しずかに笑って今の生活を抱きしめられる人がひとりでも多いことを祈りたい。