哲学・日記・メモ 「物語とメモと」
物語とメモと
私は昔からメモ魔で、と言っても何でも見たこと聞いた事を記しておくメモ魔ではなくて、見たこと聞いた事に対して考えた事をメモししているのだけれども・・・そんなメモ魔なようです。
しかしそうしているとメモが溜まってくる。だからたまにはそれらを見返して新たなメモを作ったりしてもいる。するとそんな感じでメモが何となく形になって、散文になったり詩になったりしてくるのだけれども、私は作品の為にメモをしているのかな?
メモと言うのはいったい何なのだろうか、と考える。
それはその都度その都度の状況の中で、状況の中で変化し続ける私の、その変化の痕跡であるのだろう。だからメモとはそのような、その都度その都度状況と共に変化していった「私」の痕跡でもある。
このことは「私」を否定する構造主義や東洋思想からしたらまさに「その通り!」なのだろう。「私」と言う実体も本質も、そもそもそんなものは無く、その都度その都度の状況における「関係性」が「私」を作っているだけなのだ・・・と。
それはそういう分析としては確かにそうだとは思います。しかし、分析に納得をしたからと言って、私は「私が関係性の中の刹那的な私である事」には全く納得できません。何故か。
私は過去に記したメモを前にして、それを繋いでいきたいと言う衝動を抑えることは出来ません。それは「数多メモから共通する事柄を抽出する」という事ではありません(これではその都度その都度の「私」から「私の本質」を抽出しようとする事と同じです)。そうではなくてただただ数多メモをスムーズに結び付けていく事。その誘惑、その衝動の事を言っているのです。これは如何なる誘惑であり衝動であるのだろうか?
「物語」のそれではないだろうか?と考えます。
起承転結は必要ない。ただひたすら「メモ=その都度の私」を繋いでいく「物語」。この物語は「物語としての私」であるのだから「私の本質」でもなく「私の否定」でもない。
私はこうして「私」を「物語」の手を借りて救い上げてみたいと思います。
「私」を何か大きなもの(空でも関係性でも構造でも原初でも宇宙でも呼び方はなんでもいい)に解消してしまう力に対しての「違和感」こそが、私は私が「私」であろうとする根拠であると考えるし、それを支えるものであり防衛の武器にもなるものが「物語」なのだろう、と思うのです。
主体性の復権。
「物語る実存」に向けて。
2021年11月13日 岡村正敏