哲学・日記・メモ「美と創造と・・・」
美と創造と・・・
「美は形式」である。
しかし「創造は内容」である。
では「内容」とは何か。
内容は出逢いであり出逢いは驚きであり、驚きのさらにその先は、崇高であり脅威となる。
そして脅威は恐怖に隣接し、恐怖の終極は陶酔となる(『エロスの涙』バタイユを鑑みればよい)。
人生と言うスパンにおいては、この過程は100年かかる場合もあるし、一瞬あるいは刹那な飛躍によって成る事もある。
これが「内容としての創造」の始終であり、創造は陶酔の最中に在る。
対して「美」はあくまで「形式」である。
「形式」であるからには「形式を介している」という意味で、対象(内容)と接する直接性から遊離している(介するという媒介があるから)。形式はだから、内容の脅威を和らげる方法であり技法でありつまり調停である。
つまり、美と創造は離反する。しばしば、と言うより通常美と創造は同じものとして捉えられるのに反して、その実創造は美に造反するし、内容は形式に造反する。
画像はベーコンのアトリエ。乱雑極まりなく形式の欠片もない、内容の放置でしかない。
しかしそこにしか「創造」は生じないのだろう。
アンドレ・ブルトンは『ナジャ』の最後に「美は痙攣的なものである」と書いたが、私はそうは思わない。ブルトンは美と創造を混同している。美はあくまで調和である。創造だけが痙攣を伴うような、衝撃的な「出逢い」であり、こういってよければ絶対の他者との、極北の対話である。
2023年9月29日
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