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哲学・日記・メモ ワイエスの作品から「私・過去・描くという事」について
「私・過去・描くという事」について
過ぎ去って、はじめて出逢う、人、ものものもの。
失ったものは何もなく、別れた人も誰もいない。
嬉しくて嬉しくて、涙があふれてくるのは何故か。(岡村)
●『snowHill』はアンドリュー・ワイエスが晩年に描いた作品です。
過去、ワイエスの絵画に登場した人物達が手をつなぎ輪になって踊っています(※1)。
●ワイエスは晩年、どんな想いでこの作品を描いたのだろうか・・・?
●描く者は過去を生きる。描く者は過去に己の生を生きる。ふつう使われる「生」とは違った意味で「生き生き」と生きる。そのもっともな表現が「描く」という行為であり、その結晶が「絵画」なのだろう、と私は思います。描く者にとっては、過去こそが喜びに満ちている。過去をこそ、生き生きと生きるのであろう、と。
●「今・ここ」の生を大切にする。という事は普通大変評判が良い。しかし私は、それは確かに躍動に満ち満ちているのだけれども、そこに「私」はなく、つまり個別性は失われているのではないかと思う。「生の躍動」は過去を否定して現在の進行形を生き生きと生きる。しかしそこには私はいないのだ。
●何故ならば「私」は「常に対象に向き合う私」としか顕在化しないのだから。絵画は音楽や彫刻(彫刻は皮膚感覚も混在している)に比べて視覚によって「距離」を最も強く自覚せざるを得ない。「距離」故に「私」は「常に対象に向き合う私」なのであり、それが描くという事の特質でもあり「対象と一体化する没我≒『今・ここ』の永遠性」とは対極をなして、その根拠を過去に持っている。
●描くという行為は、おそらくそのような特性を持っている。
●そこには徹頭徹尾「私」がいなければならない(※2)。それが絵を描くという事だと、私は考えています。
2021年1月9日
※1
似た構図でマチスの『ダンス』があるのだけれども、こちらの人物達は動いているような印象を覚えるし、またマチスの場合、誰もが同じ人物のようで区別がない。
この違いは何故か?マチスの『ダンス」は踊っている人物に特徴がない。それはマチスが個別性よりも普遍性・・・色彩やリズムを手掛かりとした普遍性を「今・ここの永遠性」の中に還元志向で求めているから。だと考えます。だからマチスの場合踊っている人物達は皆に似たような人間一般として描かれざるをえない。しかしワイエスの『snowHill』は人物の個別性を明確に確認できる。それはきとワイエスの絵画制作のスタンスが、普遍性に向かう「今・ここ」の還元志向とは異なるベクトル・・・「過去」と「個別性」に根差したスタンスを持って臨んでいるから。と考えてます。そしてつまり、過去こそが個別性を保証する大きな要因なのではないか、という事でもあります。
ワイエスは過去を生きるタイプ。対してマチスは現在を生きるタイプ。そういう違いがそもそもあるように思います。
※2
その点で、描くという行為は、音を奏でる行為とはだいぶ異質なものである、と思うのです。