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イロトリドリ

朝まで語り合える仲と過ごした夜


昨日の夜から今朝まで友人宅にいました
子連れでお泊まり新年会です

メンバーは、
療育支援で一緒に頑張ってきた先輩くんたちと、そのママたち

このメンツで集まるのは1年前の年末以来で
療育での思い出話や、現在1年生の先輩くんたちの学校でのエピソードから、友人関係、夫婦関係、将来のこと、あれこれ……

いろんな話に花が咲きまくり
「もう、寝ようか!」って布団に入ったのが
午前5時半(笑)

子どもたちのことは、夕飯食べた後にお風呂を友人パパさんに5人まとめて入れてもらった後、私が寝かしつけて先に寝かせてありましたが

子どもたちも久しぶりの再会に興奮してなかなか寝付いてくれませんでした(^-^;

私にとってもそうですが
子どもたちにとっても
学校は違っても会える友がいることは
いろんな意味で心の支えになっています


学年はみんな息子より1つ上だけど
月齢では3〜4ヶ月しか違わなくて
みんなで順番にNINTENDO switchで仮面ライダーのゲームに夢中になり
かと思えば「オセロやろー」ってアナログな遊びが始まったり
思い思いに過ごしていました

みんな、第一子男子のママたちで
私は、娘 のち 息子のママで

同伴した娘は男の子ママたちにチヤホヤしてもらって
アレコレ手伝いさせられてましたが嬉しそうでした。


「娘がいると、こんななんだろねぇ」って。

私の当たり前は、みんなにとっての新鮮。

面白い発見でした。


集える喜びと悩み

要支援児を育てている親にとって
家族での外食もハードルが高いことがあります

日常とは違う場面での振る舞いを求められる環境での食事は
楽しみでもあり、ストレスにもなるからです

楽しんで食べて欲しい反面
大きな声を出したり、立ち歩いたりすることは
公共の場ではNGですから

普通なら楽しいはずの外食も
実は、逆に気疲れして楽しめなかったりします

そんな私たちが
グループで集まって子連れで外食………
考えただけで疲れます(笑)

楽しいに決まってるけど
楽しめないのが実際です

だから
自宅を開放してくれたママに心から感謝

自閉症の息子さんを育てているママなので
「自宅で、が一番、自分が気を使わなくて済むから」
話していました

たしかに
息子さん自身も、環境の変化に疲れなくて済むし
ママ自身も、よそで何かハプニングがあるより、
自宅でのほうが対応しやすいからってことでした

けど

そんな彼女親子や私たちのような親子にとっても

大騒ぎはしないから
多少のことは目をつぶってくれるような雰囲気が
もっと世の中にあれば…と

そんな風に思うことは贅沢なことでしょうか

障害があるから◯◯できない

そんな風に一括りにするのではなくて

苦手なこともある、けど、こんな風にできたら◯◯することもできる

という
ほんの少しの配慮があるだけで

生きやすさは 大きく変わるんですけどね


バリアフリーとユニバーサルデザイン

バリアフリー

障害がないように
主に物理的な障害を取り払うことだけど

取り払うことだけが配慮の全てではありません

ユニバーサルデザイン

誰もが使いやすくなるように
設計段階から作られているもの

はじめから、万人に対する思いやりがあることが
バリアフリーとの大きな違いではないかと

私は、そう認識しています

バリアフリーが
障害を取り除くことを指し

ユニバーサルデザインは
障害になるものを作らないことを指す

という感じでしょうか



形のないものにもユニバーサルデザインを

この考え方
ユニバーサルデザイン は
物理的なものに対してだけではなく

精神的・心理的な面でも広まっていくといいと思います


人間関係において生じる障害の中には

当事者の困り感を理解することが難しいなぁと感じることが多いです

まだまだ情報が十分ではないから。


情報がないことに対して
安心できますか?

私は、できません

知らないことは、怖いし、できれば関わらずにやり過ごしたい

これは何に対しても当てはめられることでもあると思いますが

発達障害に対する正しい知識があるのとないのとでは
障害を抱えた人に対する関わり方にも
大なり小なり影響があると考えます

けど
当事者になってみたり
身近に当事者がいたり
よほど関心・理解がある人でなければ
積極的に正しい知識を得ようという行動は起こりにくいのではないでしょうか

それは、
発達障害に対する考え方が
学校でも社会でも
「特別支援」と位置付けられているから

特別って
『他とははっきり区別して扱う』 とか
『普通一般のものとは、別扱いにするのがよい』 とか

調べるとそんな意味がヒットします

違和感ありませんか?

たしかに、必要な配慮があったり、個々に生まれ持った特性があったりはしますが

区別したり、別扱いにされることは
当事者は求めていない
(あくまでも、私の個人的な意見ですが…)

別扱いにしなくてはいけないことではなくて
その人に合った支援や関わり方をすることは
特別にすることではなくて
当たり前に

みんなが普通にできていたら

区別も差別も
いらない

みんな
誰にでも
得意苦手が少なからずありませんか?

発達障害と位置付けられてる人たちは
その苦手感が人より大きくあって
困り感として露呈することも多くて目立ってしまうことがありますが

みんな 同じ 人間なんです

その人、その子に合ったやり方にカチッとハマれば
困り感も苦手感も抑えることができるはずなのに

大多数を占める「普通の枠」の中で収まる人の中では
その枠にはめ込まれることが負担であり
生きづらさに、なる

発達障害は
定型発達の人たちから見たら
普通じゃないのかもしれないけど

だからって排除されたり
見下されたりしていい人たちではない

逆に
困り感に注目させずに
得意な面を上手に伸ばすことで
才能が発揮される人だっている

昨日書いた、息子の話のように。


こんなことを書いてる私も

人の顔と名前を覚えられなかったり
数字が複数出てくると処理できなかったり
耳で聞いて記憶することが難しいから書いて記憶したり
マルチタスクこなせないから
いつも何かしてるときにはもう一つのやるべきことが抜け落ちていたり

買い物帰りに電話が来て追加で頼まれたものさえも、
買い忘れて帰って家族から小言つかれたり….

約束の時間にはいつも遅れてしまうし
いつも探し物に時間を取られてしまうし
スマホを持って出るのを忘れたり
戸締りを忘れたり

苦手なことだらけで生きているけど

たぶん、得意なことも…少しはある。

けど
自分では自信持って「コレ得意です!」ってできないで生きてる

苦手なことと、ある程度好きなことでバランスとって
社会の中で弾き出されないように生きてる

認められたい!と 強くは思わない
わかってくれる人がわかってくれれば、いい

その、わかってくれる人が
少しずつでも増えてくれたら

生きづらさを少しずつ中和して
穏やかに生きられる人が増えると思う




あ……


また少し暴走気味になったかな……



社会の中に、物理的にだけではなくて
精神的なユニバーサルデザインが浸透すること

正しい知識が広く一般に浸透して
特別扱いしなくても
みんなが生きやすい社会になること

要支援児たちは「要支援」の枠に収まらずに
それぞれの個性を発揮して力強く生きる力があるから
それをありのまま受けとめてもらえる社会になること

みんな

一人ひとりが

キラッと輝く何かを持ってる

生きてるだけで満点だし

必ず誰かの、役に立っている

一人ひとりが色とりどりに輝いて生きる

『イロトリドリ』

私の師が好きでよく使う言葉

私も好きになった

ステキな表現だと思う

輝いて生きられたらいい


そんな風に、生きたい



みんながみんなに寛容な

あたたかい社会になればいいな………



飲み会明けの寝不足の頭で思うことでした。