
百の頂に百の喜びあり
いまから20年前に書き留めたことを掲載します。
「百の頂(いただき)に百の喜びあり-」
かの日本百名山を記した深田久弥さんの名言である。
なぜにこんなにも「登山ブーム」になっているのだろうか。
たかだか10数年前、大雪山の夏山には、大きなザックを背負った大学山岳部パーティや、ひげなどを生やした、いかにも!という岳人たちしかいなかったような気がする。
ぼくが高校生の当時、山の大きなザックを背負って街や駅にいるだけで、奇妙な扱いの眼差しを受けていたようにも思える。(どうしてわざわざ疲れる山なんかに行くのサ?)
その頃は、山の上も、登山基地の温泉の湯船も閑散としていて、なんだか別世界だった。
それが、今の夏山は、フツーの中高年の方たちを主にして、スゴイ人数なのである。
とてもにぎやかなのである。ぼくでも「若いわねー!」などと云われるのである。
一種、不思議な「社会」が生まれだしているような気さえしてくる。
登山の専門店へ行くと、お客さんの年齢の高さもフツーになってきた。
店員さんに「○○山に行ってきたわよ~、来週は○○岳へ行くのよ~」と話し、新しく色とりどりな装備を買い求めている光景は、ホントウにごく当たり前になってきた。
機能的な山の装備に、そういうオシャレ心は、大切だと思う。
書店に行くと、山岳書や登山ガイドコーナーが充実してきた。
「中高年から始める山登り」、「知っておきたい中高年の登山術」、「初心者でも楽しめる夏山ガイド」なんていうタイトルの本たちが、ずらりと並んでいる。
日常生活の読書などから山を研究していく姿勢は、大切だと思う。
先月の知床でも、百名山のひとつ、羅臼岳にはガイド登山隊がいた。軽アイゼンを着用していたので本州からのお客様だと思う。みなに迷惑かけまいと登られていた。
先日の大雪山でも、土曜日に黒岳へ、日曜日に永山岳にと足を運んでいる女性の方たちもいた。小屋のテーブルの上に自分で漬けたのよ~と漬け物などを出し合い、ランプの下では、高山植物の「勉強会」までしているからスゴイ。
この花は何ていうのかしらん?と、登山中の明るさも、興味や好奇心も、そのパワーもスゴイ。
どうしてそのお年頃になってから、山に向かう(登山を始める)のだろう・・・と、少しだけ
疑問に思うのは、不自然だろうか。
おそらくかつて青春の頃にハイキングをした憧憬も加わり、子育てを終えて、第二の人生として何かに向かいたい、挑戦していきたいのだろうなあと思う。登山はとても健康的だし。
登山(集団パーティ)は、職業や年齢、性別の枠を越えた「信頼感」で結ばれているものである。楽しく明るく何かに向かえる行為ということ自体に、正しい人としての喜びがある。
日常生活とは、やはり違った自然環境に、無意識にも影響を受けてもいるのかも知れない。
登山(夏山一般)は、がんばれば、その一歩を続けてゆけば、いずれは必ず頂上に立てる。
間違いなく行く先に「頂上」があり、その苦労と努力が完結する地点として存在している。
そして、頂上では、その苦労と努力の継続の結果として、大きな「達成感」が迎えてくれる。
中高年の方たちが迎えるその「達成感」は、おそらくぼくたち世代では感じ得ないほどの「安心感」が伴っていて、きっとその「達成感」は余計に大きいのだろうと、ぼくは思う。
戦後の高度経済成長を支え、終身雇用や、一つの仕事をじっとやりぬく美学といった時代に生きてこられた人として敬い察しさせていただくと、尊くもよくわかるような気がする。
余談だけれど、そう考えると、今の若い人たちは、かわいそうな気がする。
「頂上」が見えない。
今の時代、みんなの「頂上」はなく、一人ぽっちで「山裾」をさまよっているようだもの。
若い人たちも山岳部や社会人山岳会などで基礎を積んで、山に向かってほしい。
山の危険と隣り合わせを覚悟で、中高年の齢になってから登山を始めるのも、ひとつの喜び。
百人いれば、百人それぞれの喜びがあり、一人で百の山に登れば、それぞれの頂上で迎える喜びもあり、同じ山に百回登れば、百回それぞれの発見と印象の喜びがあると思う。
そして、山と自然と人を愛する人たち誰もが、無事、安全に家人に迎えられて云える名言、「百の頂に百の喜びあり」
(カバー写真は、日本百名山・斜里岳 11月)