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なぜ山に登るのか?

よく人にこう言われるのです。
「なんで疲れることをわざわざ・・・」
「また余計、寒いところへ・・・」
「やっぱりさ、頂上に立ったときの征服感が良いのかい?」

 困ったことに、ぼくは明快な答えを持ち合わせていません。
景色が良い、花がきれい、冬は神々しい、山を愛する人が好き(酒も好き)などと、そのときどきにしてきました。

 自分のしている行為に、何らかの説得させる言葉、意味をつい求めてしまいがちになります。だから、今までも自分に問い続けてきましたが、よくわかりません。
 もともと、そんなことは考えなくても良いのかも知れませんが、悲しいかな、いつも答えを探したいのです。

 世界最高峰のエベレストで行方不明による遭難死をし、初登頂に成功していたかどうかといった大きなロマンと謎を、過去に投げかけてきたイギリスの登山家、ジョ-ジ・マロリー氏の有名な言葉があります。
 なぜ山に登るのか?の問いに対して
『そこに山があるからさ』
という言葉です。多くの人が知っている有名な言葉ですよね。

 しかし、この訳、捉え方は適切ではない気がしています。
正確には「なぜ山(=エベレストにこだわって)に登るのか」
に対して、「It is there(そこに山=エベレストがあるから)」なのだと思います。
(実際、これはエベレストに登る彼に対しての取材中の言葉)
彼は、どんな山にも登ることに熱意と探求心を燃やしたのではなく、エベレストというひとつの山を愛し焦がれ、特定のものとして昇華させていたのだと思います。

 登山とは高いところがあれば自然と本能的に登ってしまうという行為ではなく、その山に対する想いがそうさせるものだと思います。頂上=ゴ-ルのような行け行けゴーゴー的なものでは、ぼく
の中では少なくても違います。
登山を始めた頃は、つらい行動を完了させるものとして、やはり少しそう考えていましたが。
 単なる体を動かす、移動させる肉体的行動から、山行を重ねるごとに、しだいに精神的な価値や自分の存在を見いだす、たおやかな無心的な内面的な世界へと移っていきます。


 さらに、尊敬している登山家・冒険家として知られる植村直己さんがこのような言葉を残しています。
『もし、世界に山がなければ、私は地平線を目指して歩き続けただろう・・』」
おそらく、人が持つ好奇心、探求心が原点になっているものだと思います。

 そして、北米最高峰マッキンリーでの冬期単独登山で消息を絶ったことに際しての、昭和58年2月28日の朝日新聞「天声人語」では次のような社説がありました。
 『植村さんはこういっている。「高い山に登ったからすごいとか、偉いとかいう考え方にはなれない。山登りを優劣でみてはいけないと思う。要は、どんな小さなハイキング的な山であっても、登る人自身が登り終えた後も心に残る登山が本当だと思う。」このつぶやきの中にこそ、冒険家・植村直己の本音がある。
高い山に登ることが一流で低い山に登ることが三流か。
そうではあるまい。高い山を登るのにも一流の登り方があり、三流の登り方がある。低い山でも、同じだ。
要は「深く心に残る」登山をすること、それが植村流の登山哲学なのだろう。』

 山を想う気持ち、対象とした山への情熱、その山行を深く心に残るものにするための精神集中、情報収集、体力や技術の研鑽、自然への畏敬や尊重、控えめな気持ち…こういったものすべてが、思い通りにいかない自然の中に身を置き、判断し、行動することで、深く心に刻まれる山行になってこそ、初めて、山は、山として当人の中に存在するものだと思います。

(登山を通じての、ぼくの中の)山は、人生哲学的なところがあるのだと思います。
人が日常生活の中で常に生き甲斐を感じていないように、山に行っているときには、こういったことは考えないものです。
無心状態になります。

 ラ-メンを食べているときに、”なんでオレは今、ラ-メンを食べているんだ?”と意識しないように、もちろん山にいると、こういったことは考えません。
結局、こうして家にいる今は、山を想って、ボヤキつぶやいている、といったところなのでしょう…また、明快な答えが見つかりませんでした…

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