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筆滑らすも多生の縁

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 「筆滑らすも他生の縁」

「袖すり合うも他生の縁」という言葉を初めて聞いたのは、高校生の時だった。
何気なく聞いていたラジオで、女性アナウンサーが言っていた。
前後の内容は全く覚えていないが、その言葉が「初対面の挨拶や、偶然の再会、また思いがけない縁を感じた時に使われる」らしいことは分かった。
女性アナウンサーがしっとりと発したその言葉は、どこか大正ロマンを感じる胸ときめく予感の言葉に思えた。恐らく当時流行っていた少女漫画「はいからさんが通る」(大和和紀)の影響もあったに違いない。
残念ながら高校生の私は「他生」という言葉を知らなかった。耳から入った「他生の縁」という言葉は、何の疑問もなく「多少の縁」と変換された。
そして袖が触れ合うような小さな縁がきっかけで、やがて若い二人にはロマンスが芽生え、そしてそれから・・・
恋に恋する17歳の乙女は、一人妄想を膨らませニヤニヤしていたものだ。
それからの数十年、「他生の縁」というフレーズを口にする機会も、目にする機会も何処にも訪れず、年月は過ぎ去った。いつしか年号は「平成」へと移り変わっていた。

そんなある日、市立図書館で借りた轡田隆史氏の著書「心に効く いい人生をつくる11行の話」の中で、「そですりあう・・・」と再開したのだった。
誠に恥ずかしながら、そこで初めて真の「他生の縁」を知った私であった。
しかしその時の私は、己の無知を恥じるより「へぇ、そうだったのか」と真実を知った喜びの方がはるかに大きかった。素直に世紀の大発見くらいの気持ちだ。そして私は知り得たことを誰かに教えたいなぁと思う、変なサービス精神というか、性質がある。その時もご多分に漏れず、お節介な正義感がむくむくと沸き上がったのだ。
 まずは主人に「他生の縁」について教えてあげようと思った。諸々の場で話をすることも多い主人である。皆の前で間違っては大変なのだ。
用意周到、転ばぬ先の杖、これこそが「内助の功」ってやつだ!私は一人ほくそ笑む。
しかし、しかしである。よくよく考えてみよう。
主人は毎朝4時には起床し、6社(スポーツ新聞も含む)の新聞に目を通す人である。
おそらく「他生の縁」については、知っているのではないだろうか?
そうだ、きっと知っている。その可能性が非常に高いと思われる。
逆にこの年になるまで知らなかった私に
「お前、そんなことも知らなかったのかぁ?」
等と言って笑うかも知れない。
たぶん主人は笑うだろう。右の口角だけちょっとあげ、ニヤッと笑うに違いない。
主人のしたり顔が目に浮かぶ。ああ、何とも腹立たしい。せっかく、「内助の功」を発揮しようと思ったのに…
私は鼻息荒く主人を睨んだ。妻の勝手な妄想など、露とも知らない主人は読んでいた新聞から顔をあげた。そして鬼の形相の妻と目が合い、「ぎゃっ」と小さく叫んだ。
いったい俺が何をしたというのだ?とでも言いたげである。そんなこんなで主人に「ねえ、『他生の縁』て言葉知ってるぅ?」と聞くのはやめにした。
次に思いついたのが三人の息子たちだ。さっそくグループラインで尋ねた。
返信は既読がついた後、数秒で返って来た。そこには明らかにネットで検索したと思われる回答が、揃いも揃って貼りつけてあった。
便利な時代になったものだ。そして私は確信する。息子たちは、絶対に知らなかったであろうと!
そして数分後のグループラインは「袖振り合う」じゃねえ!?
いや「触れ合う」だろ!
「他生」と「多生」両方あるぞ!
「多少」が正しいんじゃないか?それとも「多傷」か?
「多傷」は極道的だよな?
なんなら「多傷の宴(えん)」カッコよくねぇ!!等々、言い出しっぺの私はそっちのけで、息子たちは大いに盛り上がっていた。
こらこら、息子たちよ!これは仏教的な教えに由来する言葉だぞ!
罰が当たっても、母は知らないぞ!

しかし、「同音語」というのは何だかややこしい。
話が全く別のものになってしまう可能性もある。

そして私は、はるか昔の学生時代のことを思い出していた。

それはイベント会場の喫茶店での短期アルバイトの時の出来事だった。
私以外に二人の女子大生がいた。JちゃんとFさんだった。
Jちゃんは他の女子大の1年生。同い年ということもあって、すぐに仲良く打ち解けた。
もう一人のFさんは大学院の2年生、誰もが振り返るような「超」がつく美人だった。
バイト2日目、Jちゃんは私にそっと教えてくれた。
「ねえねえ、Fさんて『整形』なんだよ!」
「えっ?」
私は驚いた。Fさんほどの美人は、そうそういるものではない。しかし、まさかの整形美人だったとは!
その事実をJちゃんはFさんに直接聞いたというではないか!
私はJちゃんの度胸に感心した。
「それにしても、『天はニモノを与えず』っていうけど」Jちゃんが言った。
煮物?わたしの頭の中を筑前煮やひじきの煮物がぐるぐると回っている。
「『煮物』!?」私は真顔でJちゃんを見た。
「やだ『天はニモノを与えず』って言葉知らないの?」
Jちゃんが呆れたように言った。
本日何度目かの「?」である。
Jちゃん、それを言うなら「ニモノ」でなくて「ニブツ」だよ。
私は心の中で思いっきり叫んだ。あくまでも心の中で、である。

可笑しさをこらえ、曖昧に笑う私をJちゃんは哀れに思ったのだろう。その意味を丁寧に教えてくれた。
「だからね、Fさんはあんなに美人のうえに、成蹊の大学院生だなんて頭も良くて凄いなって!それが『天はニモノを与えず』ってことよ」
数えきれない「えっ」を連発しながら「整形」と「成蹊」の誤変換にやっと気づいた私なのであった。
その後10日間のバイトは楽しく無事に終わった。
Fさんが才色兼備であることと、Jちゃんが私を「おバカちゃん」だと思っているという事実だけが残った。
何はともあれ「天は煮物を与えず」とは、なかなかの迷言である。


さて、相変わらずの誤変換を繰り返しながら、私は自分を表現できる手段として少しばかり物を書いている。
自己満足の域をなかなか脱することはできないが、多くのご縁をいただき、何かしら筆を進めている。
文章の書き方を指導してくれる人、エッセイを書かないかと声をかけ、励ましてくれる人、書く場所を提供してくれる人…等々
これも「袖すり合うも他生の縁」のお陰なのだと思わずにはいられない。

そうなのだ、世の中は「袖すり合うも他生の縁」なのだ。
そして物書く私には「筆滑らすも他生の縁」であったりする。
これは私の名言である。
今日も今日とて、私は何かを書いている。
物を書ける幸せに、ありがたや、有難やの私なのである。

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