美しさの宿るところ
闇があるから光がある。
光があるから闇がある。
その両極があるから陰影が生まれ、
美しさというものが宿っていく。
先日、本屋でふと一冊の本が気になり、手に取った。タイトルには『陰翳礼讃』とある。谷崎潤一郎について語ったものだろうか?と本をめくると美しい写真の数々が谷崎氏の文と共に綴られていた。どなたが撮ったのだろう?と再び表紙に目を移すと大川裕弘氏とある。あ!点と点が線になる。かつて雑誌『婦人画報』の編集部に在籍していた際、ホテルのスパ特集などでご一緒した大御所フォトグラファーの方だった。「空気を撮る名匠」「気配を捉まえる達人」と称されている著名写真家。撮影現場で、空気感に佇む美しい気配を一枚一枚の写真に捉えていく光景が、急にリアルに蘇ってきた。とてもとても好きな現場だったなぁ、と。
そして私の脳内では、10年以上前に世田谷パブリックシアターで行われた舞台『春琴 - 谷崎潤一郎「春琴沙」「陰翳礼讃」より』を思い出す流れに。鬼才と謳われたサイモン・マクバーニーが“陰翳のあやに存在する日本の美学“を美しいライティングや三味線の音色などの演出により、重層的に表現していた舞台。谷崎文学について大して知らない私が大きな衝撃を受けて、当時の私自身の状況と重なったものもあったのか感情も揺さぶられ、深く魅入ってしまった。今でもときどき思い出す素晴らしかったなぁと感じる舞台のひとつ。その流れで会場で本も手に入れた『陰翳礼讃』との出会い。
いつの頃からか「あいまい(曖昧)」「あわい(間)」なものに興味が湧いていった。白黒つけることがいいとされることが多い社会常識のなかで、本当に白なのか?本当に黒なのか?その中間色だったりはしないのか?というところが気になっていた。人間は移ろいゆくものなのに、その現象の流れというプロセス自体を無視するかのように、ひとつの「解」を導き出す。それが社会という共同体のなかでは必要なことだとしても、こぼれ落ちる「間のもの」をそのまま、その形のまま、その雰囲気のまま、残してもいいのではないのかな、と。きっとそれが文学と呼ばれるものの役割として、昔から存在してきたのだろうな。
とある旅路のなかで、アーユルヴェーダ専門家のMOTOKOさんなどと子どもも連れた大勢で庭園を散策していたときのこと。「さぁ、これから冒険だよ〜!探検隊の隊長!道を教えて〜!」と、子どもたちに葉っぱをかけるような声がけをした私に対して、MOTOKOさんに「まりちゃんは、よくそういった“あいまい”な感じで子どもたちを盛り上げるよね〜。まりちゃんもお母さんからそうやって育ったの?」と突っ込まれた。確かに目的はないから、あいまいな声がけなのか、と「あいまい」の更なる使い道を知ったと同時に、私もそんなあいまいななかで育ったのかもしれないな、と改めて自覚した。楽しそうな雰囲気、という気配だけがある、そういう見守り方をされていたのかもしれない。
あいまいさには、いつでも自由に遊べる余白がある。寄り道をしても大丈夫。何者かという定義をしなくても大丈夫。そのプロセスが生んだ陰翳がいずれあなたの個性という美しさに成長する。人間味あふれる味わいになる。そんな余白を楽しめる自分でいれたなら、意外と既に満たされているんじゃないかな、と。だからときには試しに道を外れてみたり、灯りを消してみたり、そんなこともあなたの個性が光るための、美しさが宿るためのきっかけなのかもしれない。