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頭の中がいつでもとても忙しい

エッセイ的な文章をnoteで発信していきたいと思う。
自分の中で渦巻く思いや意識を形にして発散というか、消化したい気持ちが抑えられなくなってきたから。できれば、昇華させてあげられるといいんだけど。

私は、視界に入ったもの、耳に届いたことの全てに心配していて、時には自分を蔑ろにしてでも、自分の親しい人の周りだけでも物事が円滑に進むように手を回している。
意識してそうしているわけではなく自然とそうしてしまう。勝手に体が動いてしまって、気がついたら最後何もしないではいられない。もし、自分が忙しくて手が離せない状況で、問題ごとに気が付いて何もアクションができない!となると、気になって気になって仕方がない。
手元の作業から意識が逸れた途端に集中からは遠ざかり、思考が巡って不安が押し寄せ、気が付いたら手が止まっていたり、気がつかないうちにミスをしでかしている。

争いや諍いは全力で避けたいし自分と関係ない出来事でも、人が言い合うような刺々しい空気感は居心地が悪くて逃げ出したくなってしまう。(好きな人はいるのか?)

人の大きい声が苦手。というかそもそも大きい音が苦手。駅のホームはとても煩くて辛いし、クラクションとか、重めの物が落ちた時の音とか。ぶつかった?事故になった?痛くなかった?大丈夫?大きい声はどうして出してるの?怒ってるの?何に怒ってるの?大きい声を受け取ってる人は大丈夫?何がいけなかったの?

私だったらその時どうすればいいの?
どんどん頭の中が忙しくなっていく

感受性豊かというのも考えもので。想像力もたくましい方な私は、自分に起こっていない事態にも敏感に反応して自分がその場面に出くわした時の予行演習という名の妄想を永遠に繰り返してしまう。どうやって行動しよう?とか、どんな発言をしよう?とか。どうすれば周囲に迷惑をかけずに事態を最速で収束できるか。みたいなことを永遠に考えている。この不利益な予行演習の厄介なところは、ネガティブな想定をどこまでも広げていけること。
予行演習の間、パニックを起こしてるみたいなもので体が動かなくなって思考は堂々巡り、「あ、息が止まってる」って気が付いて、慌てて呼吸を再開したりする。危険が伴う仕事には絶対に就けないよね。おかげさまでデスクワークに就いていてなんとかなってるけど。なってるのか?

嬉しいこと、楽しいことも自分に起こっていなくても嬉しくなれるし楽しくなれるところは、自分でも良いことだと思えるのだけれど、悲しいことや辛いこともめちゃくちゃ感じ取ってしまうので、人が失敗してるところとかはもうしんどくて見ていられなくなっちゃう。
微妙な空気と苦笑いと恥ずかしさ、ピリついた緊張感と沈黙と焦り、自分も静かにしている以外の選択肢はないのだけれど、「こういう風に返事しなよ」とか「なんでちゃんと説明できないの」とか考えてしまって、大変しんどい。自分がその立ち位置だったら、全力で自分を責めてると思うと尚更にしんどい。

このしんどいって気持ちをどう説明したらいいのかわからないけど、とにかく耐え難いことで、1日に1度でも遭遇してしまうと心がものすごく疲弊してしまう。自分をケアすることも下手くそな私はそんな疲弊を回復するのも結構大変。

こんな感じで休むことなくずっと頭を使っているよと人に話すと、
疲れない?と聞かれることがある。

正直に言いましょう。めちゃくちゃに疲れますよ。

でも全自動完全autoで発生してるんだもの。途中で活動停止もできないんだもの。私は逆に問いたい。みんなはこうならないの?ならない、、?そっかぁ、、。

みんながみんな、こうならないならば、私の頭の中をエッセイ的な文章という形にするだけでも、自分だけのクリエイティブになるんじゃなかろうか?私の頭の中を整理する機会にもできたら、まるで嵐のような日常も昇華できるんじゃないかな。などと御託を並べだけれど、とにかく発散させて。

ビビリでおっちょこちょいでいろんなことに敏感で、いつでも頭の中が忙しい私の溜め込んでしまったことを吐き出すように書き認めていく。

草々不一。誰に宛てているわけでもないけれど。

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