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48番・石川読谷線の歴史を調べてみた
沖縄県読谷村とうるま市石川を結ぶ48番・石川読谷線は、2000年以降たびたび廃止の危機にありつつも、2024年7月現在も運行されている沖縄バスの路線である。
典型的なローカル線であるが、かつては那覇バスの前身である那覇交通も運行しており、それなりの需要があったバス路線だったようだ。
沖縄バスは会社設立時から運行
『61番・前原線の歴史を調べてみた』でも紹介した、沖縄バス設立当初のものと思われるバス路線図$${^1}$$には「読谷石川線」という路線の記述がある。この路線図は、免許区間を記載しているだけと思われ、他路線の認可区間で補完すると、現在の48番・石川読谷線とほぼ同様のルートである。
以下に運行ルートを示す。
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OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors
沖縄交通(桜バス)が運行に参入
次に参入したのは、当時存在した沖縄交通(桜バス)のようである。那覇交通の創立30周年記念誌には、下記のキャプションと合わせて、1951年(昭和26年)ごろの石川~読谷を結ぶ沖縄交通のバスの写真が掲載されている。
沖縄交通株式会社(桜バス)昭和26年頃、石川~読谷村高志保間の旅客輸送に従事していた当時のトラック改造バス
よって、沖縄交通は少なくとも1951年当時、すでに石川~読谷線を運行していたことになる。なお、沖縄交通の設立は1951年$${^2}$$のようなので、1950年運行開始の沖縄バスよりも、後の運行開始であることは確実である。
続いて参入したのは那覇交通
那覇交通の創立30周年記念誌には、当然ながら自社の運行路線に関する記述があり、石川~読谷線については1953年(昭和28年)12月22日に免許を得たようである。年末の認可であることから、実際の運行開始は翌年の1954年であろうか。
石川-読谷線(石川-読谷間)18.3粁 2両 12回(昭和28年12月22日免許)
1950年の沖縄バス、1951年の沖縄交通に続き、3社目の参入であった。よって1954年当時の石川~読谷線は、沖縄バス、沖縄交通、那覇交通の3社体制だったようである。
いまの感覚だと、そこまで需要がある区間ではないが、戦後すぐの石川市は沖縄県の中心地$${^3}$$であったことから、多くの住民が住んでおり、一方の読谷村には多数の米軍基地が立地していたことから、米軍基地への通勤需要が高いバス路線だったのかもしれない。
那覇交通が沖縄交通を吸収合併し2社体制に
1954年当時、3社体制であった石川読谷線ではあるが、同じ年の5月に、那覇交通は沖縄交通(桜バス)を吸収合併している。
1954年、当時宮城社長は琉球政府経済委員及運輸審議委員であったが委員会では「弗放出の防止」「沖縄に於けるバスの適正台数は285台が妥当である」旨政府に進言、政府でも業者保護と弗防止の見地から車両の増車制限の方針に傾いたので、当社は事前に之を察知し、現保有台数の27台では将来他社に対抗して経営を維持して行く事は不可能であるとして、5月9日緊急役員会を開催、他社に先手を打って1954年5月10日桜バスを買収、保有台数43台となった。
太字は筆者によるもの
那覇交通が石川読谷線の運行を開始した詳細な日付は、前述の通り不明であるが、沖縄交通は1954年5月には消滅していることから、3社体制での運行は非常に短期間だった可能性がある。
運行本数は那覇交通の方が多かった
2社体制になった48番・石川読谷線であるが、1964年12月末時点$${^4}$$の運行本数は、先に運行を開始した沖縄バスが1日9本、後から参入した那覇交通が1日17本となっており、那覇交通の方が多く運行していた。
なお、2社による運行ではあったものの、共同運行ではなく、2社が同じ系統番号、同じ路線名、同じ経路で運行する競合路線であった。そのため沖縄バスの創立30周年記念誌(1980年)$${^5}$$では沖縄バスの運行本数のみが、那覇交通の30周年記念誌(1981年)$${^6}$$では那覇交通の運行本数のみが記載されている。
ただ、起点の石川バスターミナルには那覇交通、終点の読谷バスターミナルには沖縄バスが、それぞれ営業所を設けていたため、競合路線とはいいつつも、両者の営業所を活用した運行だったようだ。実際、1981年8月当時$${^7}$$、始発はそれぞれの営業所がある側が担当(沖縄バスは読谷側の始発を担当、那覇交通は石川側の始発を担当)していたようなので、無駄な回送が発生せず、比較的効率的な運行がされていたのではないかと思われる。
那覇交通が撤退・石川駐車場発着に変更
那覇交通の撤退は、バス路線一覧での記載から、1990年4月$${^8}$$〜1993年3月$${^9}$$のことのようである。
那覇交通の撤退により、必然的に起点側の石川バスターミナルは使用できなくなることから、新たな起点として造成されたばかりの東山団地内に石川駐車場が設置された。
石川側での変更後の運行ルートを以下に示す。
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OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors
石川駐車場は、現在は老人ホームとなっている土地に設置されていたが、1路線かつ便数も少ない割には、バスが5~6台は停車できる広さが確保されていたようである。
1993年当時の航空写真を以下に示す。
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(国土地理院の空中写真【OKC931-C32-15】を筆者が加工)
那覇交通の撤退により、運行本数は1日26本$${^8}$$から1日20本$${^9}$$へと減便された。ただ、沖縄バスの運行分だけで見ると、1日8本から1日20本と倍以上の増便であった。
なお、中部営業所の記事でも書いたが、那覇交通は1994年にはうるま市石川から沖縄市松本への移転を検討しており、48番・石川読谷線からの撤退は、その布石を打っていたのかもしれない。
2003年頃に石川駐車場は廃止
石川駐車場発着となってから約10年後の2002年4月$${^1}$$$${^0}$$~2003年3月$${^1}$$$${^1}$$の間に、石川駐車場発着から現在のように東山入口発着に変更されたようである。
石川側での運行ルートを以下に示す。
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運行本数と運行距離を踏まえると、敢えて折り返しのための駐車場を設置する必要は無いという判断かもしれない。
路線名での地名の順番と起終点が一致しない
2024年7月現在の48番・石川読谷線は、読谷村を起点とし、うるま市石川を終点としている。路線名の付け方的には、起終点が逆のようにも思えるが、かつてはうるま市石川が起点で、読谷村が終点であった。
少なくとも1964年12月末時点でのバス路線一覧$${^4}$$では、起点が石川、終点が読谷の石川読谷線となっており、1990年3月末時点のバス路線一覧$${^8}$$まではその状態である。起終点が入れ替わったのは、1993年3月末時点のバス路線一覧$${^9}$$からである。これは前述したように、那覇交通が撤退し、沖縄バス単独となったであろう時期と一致していることから、石川側に営業所を持たない沖縄バスが、起終点を入れ替えて、営業所がある読谷側を起点としたためであると推察される。その際に、混乱を防止するためか、路線名はそのままとしたため、路線名での地名の順番と、起終点が一致しない状態になったようだ。
ちなみに前述した沖縄バスの1950年当時のバス路線一覧$${^1}$$では、「読谷石川線」となっており、起点側が読谷、終点側が石川になっていることから、いつかのタイミングで沖縄バスが那覇交通に合わせる形で、路線名と起終点を変更したのであろう。運行本数的にも那覇交通が多かったのが影響したのかもしれない。
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最後のダイヤ改正は2003年
48番・石川読谷線の最後のダイヤ改正は、2003年4月14日のことであり、沖縄本島のバス路線の中では、最も長らくダイヤ改正をしていない路線だと思われる。
2000年代の初めごろまでは、公立学校の多くが隔週で土曜日が登校日であった名残からか、休校日となる第2、第4土曜日のみ運休となる便が設定されている。また1日11~12本の運行本数は、かつては少ない便数の部類であったが、残業規制強化の2024年問題等により県内のバス路線の多くが減便された結果、むしろローカル線としてはそれなりの本数が確保されているバス路線となっている。
脚注
昭和53年度 業務概況(1979年 沖縄県陸運事務所発行)p.20
行政監察業務概況 1970年5月(1970年5月 琉球政府総務局行政部発行)p.73
沖縄バス30年のあゆみ(1981年6月 沖縄バス発行)p.40
那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.43
昭和55年度 業務概況(1981年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.26
平成2年度 業務概況(1990年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.25
平成5年度 業務概況(1993年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.25
平成14年度 業務概況(2002年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.22
平成15年度 業務概況(2003年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.24